1933年、大恐慌の真っただ中でブランパンを買収し、戦争と不況を乗り越えながらブランドを再建したひとりの女性がいた。その名はベティ・フィスター。ムーブメント供給事業を確立し、後の〈フィフティ ファゾムス〉や〈レディバード〉へとつながる礎を築き、ブランパンを超一流ブランドへと育て上げた。偉大なる「母」の軌跡をたどる。。
The Woman That History Forgot
偉大なる母の軌跡——ブランパンを救ったベティ・フィスターの真実
1933年、大恐慌の真っただ中でブランパンを買収し、戦争と不況を乗り越えながらブランドを再建したひとりの女性がいた。その名はベティ・フィスター。ムーブメント供給事業を確立し、後の〈フィフティ ファゾムス〉や〈レディバード〉へとつながる礎を築き、ブランパンを超一流ブランドへと育て上げた。偉大なる「母」の軌跡をたどる。
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by Tracey Llewellyn. Sep 17, 2026 |
大恐慌という危機
スイス時計産業が「危機」を語るとき、まず思い浮かぶのはクオーツショックだろう。より最近なら、コロナ禍も記憶に新しい。しかし、大恐慌について語られることは意外なほど少ない。だが1930年代初頭、スイス時計産業は壊滅的な状況に直面していた。
世界的な需要減少によって注文のキャンセルや失業が相次ぎ、1929年のウォール街大暴落以前から、時計産業はすでに不安定な状態にあった。そこへ大恐慌の影響が深まり、スイス政府は産業崩壊を防ぐため介入に乗り出す。
1926年には、ムーブメントメーカーを統合した組織「エボーシュSA」が設立された。1931年には、時計産業を立て直すための組織「ASUAG」が設立された。その根底にあったのは「団結すれば強くなれる」という発想だった。
そしてその混乱のさなか、1933年。ベティ・フィスターと同僚のアンドレ・レアルは、ブランパンを買収する。記録によれば、その資金を工面するため、彼らは多額の借り入れまで行ったという。

▲ 左:ベティ・フィスター 右:アンドレ・レアル。
ベティ・フィスターはブランパン創業家の一員ではなかった。しかし10代の頃から同社で働き、会社のことを誰よりも知り尽くしていた。だからこそ、大恐慌という混乱の時代に、ブランパンを買収するという大きな決断を下したのである。
フィスターとレアルは、ブランパンが何を作るかだけでなく、どこで販売するかという事業戦略まで大きく見直した。1939年にレアルが亡くなると、フィスターはひとりで会社を率い続ける。そして1950年には甥のジャン=ジャックが経営に加わり、彼女を支えた。
1960年代初頭、当時「レイヴィル」の名で事業を行っていたブランパンがSSIH(後のスウォッチ グループの前身のひとつ)に加わる頃には、同社はスイスやアメリカの有力ブランドへムーブメントを供給する重要メーカーへと成長していた。
その躍進を支えた立役者こそベティ・フィスターだった。しかし現在、彼女の名前はスイス時計史を語る公式な記録の中でも、わずかに触れられる程度にとどまっている。

▲ ベティ・フィスター(左から3人目)と、甥のジャン=ジャック・フィスター(左端)。ジャン=ジャックは1950年にブランパンへ加わり、ベティとともにブランドの発展を支えた。
ブランパン家当主の右腕に
生涯を通じて“ベティ”の名で親しまれたベルト=マリー・フィスターは、1896年、時計産業の町ヴィルレに生まれた。父は、ブランパンと長年にわたる関係を持つ地元のムーブメント会社に関わり、兄弟のひとりは時計産業向けの機械を手がける機械技師となった。いわば、時計づくりが身近にある家庭で育ったのである。
大甥にあたるジャン=マリー・フィスターは、彼女の知性について、学問的というよりも実践的なものだったと振り返る。
「彼女はとても機転の利く人でした。場の空気や人の気持ちをすぐに読み取ることができた。意志も非常に強かったですが、同時に、人とどう協力すればいいのかもよく分かっていたのです」
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▲ ベティ・フィスター(左)と、大甥のジャン=マリー・フィスター。ジャン=マリーは、ベティの人物像やブランパン再建の歩みを知る数少ない証言者のひとりである。
商業を学んだ後、ベティ・フィスターはまだ10代のうちにブランパンへ入社した。当時、会社を率いていたのは、創業家7代目のフレデリック=エミール・ブランパンだった。しかしベティはすぐに頭角を現し、任される仕事の範囲も急速に広がっていった。
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▲ フレデリック=エミール・ブランパン。ブランパン創業家7代目としてブランドを率い、1932年に死去したことで、約200年続いた創業家による経営に幕が下ろされた。翌1933年、ベティ・フィスターとアンドレ・レアルがブランドを引き継ぐことになる。
第一次世界大戦中、ベティ・フィスターは「マレーヌ・ド・ゲール(戦時後見人)」として活動していた。これは、負傷したり抑留されたりして中立国スイスで療養していたフランス兵と手紙を交わし、実際に見舞いにも訪れる役割だった。
この活動を通じて出会ったのが、アンドレ・レアルである。当時のレアルは、スイスに抑留されたフランス兵を担当する将軍の副官を務めていた。戦後、ブランパンは彼を迎え入れ、フランス、イギリス、アメリカ市場の開拓を任せた。
ふたりの関係は、単なる仕事上のパートナーシップにとどまらなかった。レアルには妻子がいたが、ジャン=マリーは、彼とベティが恋愛関係にあったとはっきり証言している。ふたりが結婚することはなかったものの、レアルは現在、ローザンヌでベティの隣に眠っている。
その一方で、ベティは社内でも急速に重要な役割を担うようになっていた。ジャン=マリーによれば、「フレデリック=エミールは、ヴィルレにある会社の事業運営と営業管理をベティに任せていた」という。ブランパンのアーカイブ調査も、この証言を裏付けている。
ベティがヴィルレで生産現場を切り盛りする一方、フレデリック=エミールは次第にローザンヌの自宅で過ごす時間が増えていった。彼の関心はブランパンだけにとどまらず、1920年代にはロンジンの監査役会会長を務め、ジョン・ハーウッドによる初期の自動巻き腕時計事業にも関わり、さらに「Lancet」の名を使った別の時計事業も展開していた。
そのため、ベティの存在はますます欠かせないものになっていった。ブランパンのマーケティング責任者、アレクシオス・キツォプロスはこう語る。
「彼女はまさに、最後のブランパン家当主にとっての右腕だったのです」

▲ ブランパン買収を正式に託すことを認めた、ネリー・ブランパン直筆の書簡。ベティ・フィスターによるブランド継承を後押しした、歴史的資料のひとつである。
当時のやり取りの方法からも、ベティがすでにどれほど大きな責任を担っていたかが分かる。フレデリック=エミールはローザンヌで指示を蝋管(ろうかん)式の録音シリンダーに吹き込み、それをヴィルレへ送っていた。ベティはその内容を聞いて業務を進め、ジャン=マリーによれば、自らも録音した返答を送り返していたという。
ブランパンのバイスプレジデント兼マーケティング責任者、アレクシオス・キツォプロスは語る。
「フレデリック=エミールは、あまりヴィルレには行きませんでした。当時の録音シリンダーが今も残っているなら、ぜひ手に入れて、彼の肉声や指示を聞いてみたいですね」
つまりベティは、ブランパンを買収する何年も前から、すでに会社の実務を取り仕切っていたのである。
ジャン=マリー・フィスターは、フレデリック=エミール・ブランパンは彼女の才能を十分に理解していたと考えている。
「彼女は、もしフレデリック=エミールにとって、娘のような存在でした。会社を継がせたいと思っていたのです」
1932年にフレデリック=エミールが亡くなると、その娘にはブランパンを継ぐ意思はなかった。現存する直筆の手紙にも、父の遺志を守る人物として最もふさわしいのはベティである、と記されている。
しかし、後継者になることと、会社を相続することは別だった。
「彼女たちは友人や親族から、本当に多額のお金を借りなければなりませんでした」
ジャン=マリーは、そう振り返っている。
レイヴィル、そしてアメリカへ
ブランパンの買収後、ベティ・フィスターたちは思わぬ問題に直面する。創業家の人間が誰も経営に残っていなかったため、スイスの法律上、「ブランパン」の名を会社名として使えなくなってしまったのだ。
そこでふたりが選んだ新しい社名が「レイヴィル(Rayville)」だった。
「ヴィルレを逆から読んだような名前なんです」と、大甥のジャン=マリー・フィスターは説明する。
これは、ブランパン発祥の地「ヴィルレ(Villeret)」のつづりを並べ替えた、アナグラムのような名前だった。会社は正式に「レイヴィル社、ブランパンの後継会社」として登記された。そのため、会社名はレイヴィルとなっても、腕時計には引き続き「ブランパン」の名が記され続けた。

▲ 20世紀初頭のスイス・ヴィルレにあったブランパンの工房。ベティ・フィスターはこの地で生産と経営の実務を担い、後にブランド再建の礎を築いていく。
もちろん、新しい社名を付けただけで、大恐慌の中を生き延びられるわけではなかった。必要だったのは、事業のやり方そのものを変えることだった。
アンドレ・レアルはアメリカ市場をよく知っていた。ジャン=マリー・フィスターによれば、「大恐慌後のアメリカ市場は、ヨーロッパよりも早く回復しつつあると見ていました。アメリカに注力することを決めたのはレアルです」という。
ブランパンのアーカイブを見ると、ふたりの役割分担もはっきりしていた。レアルはアメリカ市場に力を注ぎ、ベティ・フィスターはスイスでの生産を中心に担った。
当時のアメリカでは関税が高く、完成したスイス時計をそのまま輸出して競争力のある価格で販売するのは難しかった。そこでベティとレアルは、レイヴィル製のムーブメントや部品をアメリカへ送り、現地でケースに収めたり、仕上げたりする方法を考えた。
重要な取引先のひとつがグリュエンだった。ブランパンの資料によれば、ベティは1930年代後半から1940年代にかけて、このアメリカ企業の取締役も務めていた。また帳簿には、ウォルサムへムーブメントを供給していた記録も残っている。
現在では、自社一貫生産を重視するブランドが多いため、ヴィルレで作られたムーブメントが他社ブランドのケースに収められていたと聞くと、少し意外に感じるかもしれない。だが大恐慌の時代、それは工場を存続させるための現実的で重要な選択だった。
その戦略が成功していたことは、数字からも分かる。1936年の株主総会議事録によれば、レイヴィルの生産量は月約7000個、年間では約8万4000個に達していた。ブランパンは、これは輸出本数ではなく総生産量だと強調しているが、1930年代の具体的な数字が残っていること自体、非常に貴重だ。
ベティとレアルが会社を買収してから、わずか3年。レイヴィルは再び、かなりの規模で時計ムーブメントを生産する企業へと立ち直っていたのである。
しかし1939年3月5日、アンドレ・レアルは交通事故で亡くなってしまう。ヨーロッパが再び戦争へ向かおうとしていた時期に、ベティは仕事上のパートナーであり、愛する人でもあったレアルを失った。
その後、レイヴィルの経営を担ったのはベティひとりだった。
ブランパンのアーカイブチームは、この事実が当時のスイスでは極めて異例だったと指摘している。スイスで女性に連邦レベルの参政権が認められたのは1971年。奇しくも、それはベティが亡くなった年でもある。当時は女性の参政権すらなかったのだ。
もっとも、ジャン=マリーは彼女の人生を「女性経営者」という視点よりも、その強さと忍耐力から語る。
「彼女は第一次世界大戦を経験し、その後の厳しい時代を生き、大恐慌も乗り越えました。フレデリック=エミールの死後には、多額の借金を背負って会社を買収し、事業を立て直さなければならなかった。そして今度はアンドレ・レアルを失い、その直後には第二次世界大戦が始まったのです」
ベティ・フィスターは、そのすべてを乗り越えながら、戦時中のレイヴィル=ブランパンをひとりで率いていったのだ。
ベティが築いたブランパン
ベティ・フィスターが率いた時代のブランパンは、関税対策に成功しただけではない。彼女は製品戦略でも、実に巧みな舵取りを見せていた。当時のブランパンは、小型ムーブメントを搭載したジュエリーウォッチから、本格的なダイバーズウォッチまで、非常に幅広い時計を手がけていたのである。
もっとも、この時代に生まれたすべての時計をベティの功績とするのは正確ではない。技術開発の一部は彼女が会社を買収する以前から始まっており、〈フィフティ ファゾムス〉も中心となって開発したのは甥のジャン=ジャック・フィスターだった。
それでも、ブランパンのアーカイブには、R52/R520やR55/R550キャリバー(「0」はリュウズが3時位置ではなくケースバック側にあることを示す)とベティを結びつける資料が残されている。また1936年の議事録には、1936年の議事録には、ベティ自身が直径わずか約14mmの「6¼リーニュ」ムーブメントの開発に力を入れるよう指示していたことも記録されている。

▲ 左:ケースバック側にリュウズを備えたブランパン〈R550〉 右:極小キャリバーR550、およびR520の技術資料。
小型ムーブメントは、やがてブランパンの大きな強みのひとつとなっていった。とりわけジュエリーウォッチやアメリカ市場向けの時計、そして男性用のエレガントなドレスウォッチで、その技術は力を発揮した。
ジャン=マリーによれば、ベティ・フィスターはブランパンのドレスウォッチをとりわけ誇りに思っていたという。そして男性用のイブニングウォッチについて、彼女はいかにもベティらしい、洒落の効いた考えを持っていた。
「紳士のドレスウォッチに必要なパワーリザーブは12時間で十分です。なぜなら紳士は12時間もすれば家に帰るものだから」
そして、こう続けたという。
「もちろん紳士は、朝食まで残ったりしません」
もちろん冗談ではある。だが、その言葉の裏には明確なデザイン哲学があった。ムーブメントをシンプルにすれば、より薄く、より小さくできる。だからこそ、エレガントなドレスウォッチやジュエリーウォッチには最適だったのである。

▲ 1956年に登場した初代〈レディバード “ブレット”〉。ケースに直接ストラップを通すスレッドスルー構造を採用している。

▲ 1960年代、ベティ・フィスターの指揮のもとで製造された、ブレスレット一体型デザインの腕時計。
ジャン=ジャックと〈フィフティ ファゾムス〉
1950年、ベティ・フィスターはがんと診断され、甥のジャン=ジャック・フィスターを会社へ迎え入れた。ジャン=ジャックはもともと時計業界ではなく、学者としての道を志していたが、次第にブランパンの日常業務を任されるようになっていく。
もっとも、ベティ・フィスターは経営の第一線から完全に退いたわけではなかった。ジャン=マリー・フィスターは当時をこう振り返る。
「ベティはずっと会社にいて、必要に応じてジャン=ジャックを導いていました。1950年代から1960年代にかけても、ヴィルレへ行って工場や工房を回り、現場を自分の目で確認していたのです」
病を抱えながらも、ベティは最後までブランパンのものづくりを見守り続けていた。

▲ベティ・フィスター(右)と、後継者となった甥のジャン=ジャック・フィスター(中)、その妻クロディーヌ(左)。ベティは1950年にジャン=ジャックを会社へ迎え入れ、自らの後継者として育て上げた。
〈フィフティ ファゾムス〉は、ジャン=ジャック・フィスター自身のダイビング経験と、フランス海軍の戦闘潜水員とのつながりから生まれた時計だった。だが、そのジャン=ジャックを会社へ迎え入れ、自由に挑戦できる環境を与えたのはベティ・フィスターである。結果として、それがブランパンを次の時代へと導くことになった。
一方で、ベティの関心から女性用時計が離れることはなかった。ジャン=ジャックがダイバーズウォッチの開発を進めていた頃、大甥のジャン=マリーによれば、ベティは「女性のためのモデルも作るべきだ」と強く主張していたという。

▲ 1953年に誕生した初代〈フィフティ ファゾムス〉。ジャン=ジャック・フィスターの構想から生まれ、現代のダイバーズウォッチの原点とされる名作である。
近年のブランパンのアーカイブ調査によって、1969年のダイビングカタログに記録されていた、わずか直径26mmの〈バチスカーフ〉Ref. PA5の存在が確認された。
ブランパンのアレクシオス・キツォプロスによれば、この時計は長年ブランドの金庫に保管されていたものの、その正体ははっきり分かっていなかったという。
「この小さな時計を見るたびに魅力を感じていました。ただ、本物なのか、どこから来たものなのか、まったく分からなかったのです」
これは、1955年に登場した34mmの〈フィフティ ファゾムス〉Ref. PF1とは別のモデルである。軍用・プロフェッショナル向けの〈フィフティ ファゾムス〉に対して、26mmモデルは、より一般ユーザー向けに展開された〈バチスカーフ〉ファミリーに属していた。
そして、この時計は単なるコンセプトモデルではなかった。ジャン=ジャック・フィスターは当時、南フランスで女性ダイバーたちと一緒に潜っており、その仲間には、水中カメラや水中推進装置の開発で知られる技術者・発明家で、水中写真の先駆者でもあったディミトリ・レビコフもいた。
この26mmの〈バチスカーフ〉は、ベティ・フィスターの考え方を象徴する一本でもある。大甥のジャン=マリーは、こう語っている。
「彼女は、自分では決してそう呼ばなかったでしょうが、フェミニストでした。男女は平等であるべきだと考えていたのです」
ブランパンの小型化技術がひとつの頂点に達したのが、1956年に誕生した〈レディバード〉だった。ベティとジャン=ジャックがともにブランドを率いていた時代に開発され、搭載されたキャリバーR550は、直径わずか11.85mmという世界最小クラスの丸形機械式ムーブメントだった。
もちろん、ムーブメントをここまで小さくするには、パワーリザーブや耐久性、信頼性など多くの課題があった。しかしブランパンは、大恐慌の時代から小型キャリバーの開発を続けてきた。その蓄積が1950年代には、ブランドを代表する技術的な強みへと育っていたのである。
厳しく、そして公平に
ジャン=マリーは、ベティ・フィスターを「厳しい経営者だった」と振り返る。
「とても厳しい人でした。怠ける人は好きではなかったですね。でも公平でした」
彼女は従業員やヴィルレの人々を非常に大切にしていた。ポリオを患った男性には、レイヴィルの建物間でムーブメントを運ぶ仕事を新たに用意した。さらにヴィルレの高台に土地を購入し、それを区画に分け、長年働いた従業員たちが家を建てられるよう、手頃な価格で販売したという。
ブランパンのアーカイブには、事故や病気に見舞われた従業員を支援するための基金が設けられていたという記録も残っている。
第二次世界大戦後には、生活に困っていた未亡人と子どもたちが、地元の食料品店で廃棄予定の食べ物を分けてもらおうとしていることを知った。ベティは店主に、新鮮な食料を家族へ渡し、その代金を自分に請求するよう指示した。ただし、誰が支払っているのかは決して家族に知らせないことが条件だった。
「彼女にとって、ヴィルレは自分の場所だったのです」とジャン=マリーは語る。
「自分は船長で、そこで働く人たちはみな自分の子どもたち。そんな感覚だったのだと思います」
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この「船長と子どもたち」という表現には、特別な重みがある。ベティ・フィスター自身には子どもがいなかったからだ。ジャン=マリーは、それが彼女の人生における大きな悲しみのひとつだったのではないかと考えている。
「仕事では、とても強い女性でした。本当に厳しい人だった。でも家族の中では、どこか繊細な一面もあったのです」
ジャン=マリーは子どもの頃のベティを知っている。公式写真に写る厳格な実業家とは、少し違う姿だったという。
身長は約180cmと大柄で、足に合う靴を見つけるのに苦労していた。家では、羽飾りの付いたピンク色のパイル地のスリッパを履いていた。足が痛むと、そのまま外出することもあり、イブニングドレスに真珠のネックレス、ミンクのコートという装いに、そのスリッパを合わせることさえあった。
あるとき、ジャン=マリーの母親は友人から
「ローザンヌで、ものすごく目立つ格好をした女性を見た」と聞かされ
「ええ、それは私の叔母です」と答えたそうだ。
また別の日には、仕事に遅れそうだと気づき、美容院からカーラーを付けたまま飛び出したこともあった。カーラーは後で秘書が返しに行ったという。
退屈な役員会の最中には、姪や甥たちを連れてゴーカートに出かけることを思いつき、結局は役員たちまで一緒に参加することになった。しかもベティは大喜びで、コースを逆走までしたという。
その一方で、彼女は本格的な美術コレクターでもあった。ジャン=マリーによれば、パリやロンドンへ出かけては、その土地の文化や芸術に触れることを楽しんでいた。ブランパンのアーカイブには、ルノワールやシャガールの作品を所有していた記録があり、彼女のオフィスには印象派の絵画が数多く飾られていたという。
他ブランドを支えたマニュファクチュール
ベティ・フィスターが時計史の中であまり語られてこなかった理由は、男性中心の業界で活躍した女性だったというだけではない。彼女の会社が作っていた時計やムーブメントの多くに、「Blancpain」の名が記されていなかったことも大きい。
大恐慌を乗り切る原動力となったムーブメント供給事業は、戦後さらに拡大していく。ブランパンのアーカイブによれば、1950年代末には年間生産数は約20万個に達していたという。
ジャン=マリーの記憶では、生産の中心は完成時計ではなくムーブメントだった。数量ベースでは、全体の約9割がムーブメントだったという。
供給先には、スイスを代表する時計ブランドが名を連ねる。ブランパンの資料によれば、レイヴィル製の細長いバゲット型キャリバーR59は、オメガではキャリバー690としてレディースウォッチに採用された。また、キャリバーR52はロンジンにもライセンス供給されていた。
そして1961年、レイヴィルがSSIHグループへ加わったとき、ベティが育て上げたムーブメント供給事業は、グループにとって重要な資産のひとつとなっていた。
ベティ・フィスターとアンドレ・レアルは、1930年代初頭、大恐慌のまっただ中という時計会社を買収するには最悪ともいえる時代に、多額の借金をしてブランパンを引き継いだ。
それから約30年後、レイヴィルは年間20万個規模の生産能力を持ち、ヨーロッパとアメリカの有力ブランドへムーブメントを供給するマニュファクチュールへと成長していた。
ベティの功績を「ブランパンを救った女性」とだけ語るのでは、その真価は伝わらない。彼女は、スイス時計産業そのものを支えた人物のひとりだったのである。

▲ 1960年代に製造された〈レディバード “アラベスク”〉。ブランパンの超小型ムーブメント技術と、ジュエリーウォッチとしての美しさを融合した代表作のひとつ。
再びその名に栄光を
ベティ・フィスターの功績を、ひとつのムーブメントや特許だけで語ることはできない。彼女は小型キャリバーを国際的なビジネスへと育て、レイヴィル製ムーブメントが他社の名前で販売されることも受け入れた。ジュエリーウォッチから26mmのダイバーズウォッチまで、女性用時計にも一貫して力を注いだ。戦争と喪失を乗り越えて会社を率い、ジャン=ジャックを迎え入れ、ムーブメント製造事業でビジネスを支え続けた。後に大きなグループに加わることの価値も見抜いていた。
だからこそ、彼女の名前は時計史の中で見つけにくいのかもしれない。ベティの歩みは、時計業界が好んで語る「独立したマニュファクチュールが途切れることなく伝統を守り続けた」という物語とは少し違う。そこには外注、部品供給、海外での組み立て、工業的な大量生産、そして企業統合があった。
フレデリック=エミールのブランパン、ジャン=ジャックの〈フィフティ ファゾムス〉、そして1980年代に復活したブランパンなどのエピソードと比べると、ベティ・フィスターの名前は影が薄い。
ベティは1971年9月に亡くなった。ジャン=マリーは、彼女がクオーツショックの本格的な到来を見ずに済んだことに安堵している。
「もし目の当たりにしていたら、彼女にはとてもつらかったでしょう」
その頃には、二度の世界大戦も大恐慌もすでに過去のものになっていた。フレデリック=エミールとアンドレ・レアルの死、ブランパン買収という大きな賭け、そして自身のがんとの闘いも、すべて彼女は乗り越えてきた。
スイス時計史には、称えられるべき男性たちが数多く登場する。発明家、実業家、そしてブランドを救った人物たちだ。だが、ベティ・フィスターもまた、その歴史の中心に置かれるべき人物である。彼女は、時代を生き抜くためには大胆な変化が必要だと理解し、それを実行に移すだけの強さと経営手腕を持っていた。
クオーツショックには、名高い救済者たちがいる。では、大恐慌には誰がいたのか。ブランパンには、ベティ・フィスターがいた。いまこそ、彼女の名を、時計史にもう一度刻み込むべきである。
Brands:Blancpain
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