1971年の映画『栄光のル・マン』でスティーブ・マックイーンが着けたホイヤー〈モナコ〉は、今なお時計史に輝く不朽のアイコンであり、その存在感は色褪せることがない。一方で、私生活で彼が肌身離さず愛用していたのはロレックス〈サブマリーナー〉だったという事実も、また興味深い。ハンハルト〈417〉、ジャガー・ルクルト〈メモボックス〉——スクリーンの中と外、ふたつの顔を持つ“キング・オブ・クール”の時計遍歴を辿る。
Steve McQueen: The Watches
キング・オブ・クール、スティーブ・マックイーンの時計たち
1971年の映画『栄光のル・マン』でスティーブ・マックイーンが着けたホイヤー〈モナコ〉は、今なお時計史に輝く不朽のアイコンであり、その存在感は色褪せることがない。一方で、私生活で彼が肌身離さず愛用していたのはロレックス〈サブマリーナー〉だったという事実も、また興味深い。ハンハルト〈417〉、ジャガー・ルクルト〈メモボックス〉——スクリーンの中と外、ふたつの顔を持つ“キング・オブ・クール”の時計遍歴を辿る。
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by Sumit Nag. Aug 4, 2020 |
エクスプローラーⅡ“マックィーン”について
本題に入る前に、まずは友人にしてロレックスの研究サイトrolexmagazine.comを主宰するジェイク・エーリッヒに賛同し、ロレックス〈エクスプローラー II〉Ref.1655とスティーブ・マックイーンを結び付ける誤った説を、きっぱり否定しておきたい。
“キング・オブ・クール”ことマックイーンは、Ref.1655を着用したことがない。
ジェイクはこの事実を確認するため、マックイーンの元妻たちや息子のチャド・マックイーンにまで取材を行っている。つまり、Ref.1655を“スティーブ・マックイーン”の名で呼ぶ人は、誤った情報を広めていることになる。
以上、異論は認めるが、まずは言っておきたかった。
さて、ポップカルチャーの世界においてマックイーンと最も強く結び付けられている時計といえば、やはりホイヤー〈モナコ〉だろう。
この時計は、1971年公開のレーシング映画『栄光のル・マン』のために用意された小道具だった。
『栄光のル・マン』のプロップマスター(小道具担当)を務めたドン・ナンリーは、映画にふさわしい腕時計をマックイーンのために探し出すまでの経緯を語っている。
当時のマックイーンは、『華麗なる賭け』(1968年)や『ブリット』(1968年)の成功によって、まさにキャリアの頂点に立っていた。

▲ 映画『栄光のル・マン』の撮影現場で、ホイヤー〈モナコ〉を着用するスティーブ・マックイーン。この時計は今や彼自身の名と切っても切り離せない存在となっているが、実際には彼の私物ではなかった(Image: TAG Heuer)
ドン・ナンリーによれば、人類の記憶に深く刻み込まれたあのブルーダイアルのモナコを選んだのは、ほかならぬマックイーン本人だったという。
ナンリー自身も認めているように、『栄光のル・マン』のために用意されたモナコは1本ではなく、実際には6本存在していた。
最初の1本は紛失してしまい、現在も行方不明のままである。2本目は『栄光のル・マン』の撮影期間中、マックイーンが着用した個体だった。
そして残る4本は、撮影中に破損などが起きた際の交換用としてナンリーが保管していた。そのうちの1本は、クローズアップ撮影や広報用写真撮影のために、まったく使用されない状態で特別に確保されていたという。
さらにナンリーは、撮影現場にあった5本のモナコがその後どのような数奇な運命をたどったのかについても、実に面白い逸話を語っている。
詳細については、ぜひ Quill & Pad に掲載されたナンリーへのインタビュー全文をご覧いただきたい。
ここで強調しておきたいのは、ホイヤー〈モナコ〉は必ずしもマックイーン自身の愛用品ではなかったということだ。それは『栄光のル・マン』のために用意された小道具だった。右手に時計を着ける習慣のあったマックイーンに合わせて、撮影中も右腕へ装着されていた。
マックイーンの幼少期と最初の時計
では、スティーブ・マックイーンが実際に所有していた時計にはどのようなものがあったのだろうか。その話をするには、まず彼の生い立ちから始める必要がある。
テレンス・スティーヴン・マックイーンは、1930年3月24日、インディアナ州ビーチグローブで生まれた。父親のウィリアム・マックイーンは、母親のジュリア・アンと出会ってからわずか6カ月ほどで彼女のもとを去ってしまう。
母親になる心の準備ができていなかったジュリア・アンは、幼い息子を両親に預けた。当時は世界恐慌の真っただ中だったが、祖父母はスティーブを連れて、ジュリア・アンの叔父クロード(母方の大叔父)が所有する農場へ移り住んだ。
決して恵まれた幼少期とは言えなかっただろう。しかしマックイーン自身は後年、その農場で過ごした日々を良き思い出として語っている。
そして若きスティーブにとって、大叔父クロードは多くを学ばせてくれた存在であり、良い影響を与えた人物だったようだ。

▲ ミズーリ州スレーター郊外にあったトムソン家の農場を写した当時の写真。この家は、裕福な養豚農家だったスティーブ・マックイーンの大叔父クロード・トムソン(1873〜1957年)の所有だった。クロードは次第にスティーブを実の息子のように愛するようになり、不在だった実父に代わる父親の役割を果たしたという(Image Credit: The Slater Main Street News Collection / Courtesy of Marshall Terrill / appears in “Steve McQueen: The Life and Legend of a Hollywood Icon”[2010] / medium.com)
スティーブの4歳の誕生日に赤い三輪車を贈ったのもクロードだった。この三輪車こそが、後年のマックイーンのレースへの情熱を芽生えさせたきっかけになったと言われている。
8歳になると、ジュリア・アンはスティーブを農場から引き取り、自身と新しい夫とのもとで暮らさせることにした。別れの際、大叔父クロードはスティーブに餞別として金製の懐中時計を贈っている。その時計には、
“スティーブへ ― 私にとって息子同然だった君へ”
という言葉が刻まれていた。
その後の数年間、スティーブの人生は波乱に満ちていた。母親と大叔父クロードのもとを行き来する生活を送り、継父から虐待を受けることもあった。しかもジュリア・アンはさらに再婚している。やがてスティーブは軽犯罪に手を染め、ストリートギャングとも関わるようになっていった。
こうした家庭環境の結果、彼は更生施設“カリフォルニア・ジュニア・ボーイズ・リパブリック”に送られることになる。そこでマックイーンは人生を立て直し、少しずつ精神的に成熟していった。16歳で施設を離れなければならなかったものの、彼は生涯にわたってボーイズ・リパブリックとの関係を保ち続けた。
その後しばらくの間、マックイーンは定職を持たず各地を転々としながら暮らした。そして1947年、アメリカ海兵隊に入隊する。海兵隊時代も問題行動は少なくなかったが、ある訓練中に事故が起こり、危険な状況に置かれた5人の海兵隊員を救助したことをきっかけに態度を改めたとされる。
マックイーンは1950年、名誉除隊を果たしている。

▲ 1947年7月、サウスカロライナ州パリスアイランドでの小隊卒業式にて、海兵隊の仲間ジョーとドン(笑顔のふたり)と談笑するスティーブ・マックイーン(中央)。マックイーンは海兵隊で3年間を過ごした。彼は後年、反骨精神あふれるイメージを強調するためか、「7回も二等兵に降格された」と記者たちに語ることが多かった。しかし実際の軍歴記録を見ると、その姿はやや異なる。戦時中に従軍したわけではないにもかかわらず、マックイーンは有能な兵士として評価され、比較的順調に昇進を重ねていたのである(Image Credit: Bonham’s Auctioneers / Courtesy of Marshall Terrill / appears in “Steve McQueen: The Life and Legend of a Hollywood Icon” [2010] / medium.com)

▲ ボーイズ・リパブリックの少年たちとともに写るスティーブ・マックイーン。ボーイズ・リパブリックは、問題を抱えた青少年の更生と自立を支援する教育施設であり、若き日のマックイーンもここに入所していた。マックイーンは後年、「ボーイズ・リパブリックで過ごした時間が自分の人生を救ってくれた」と語っている。そこで規律や責任感を学んだことが、人生を立て直す大きな転機になったという。そして俳優として成功を収めた後も、マックイーンはこの施設との関係を絶やすことはなかった。自身の時間や資金を惜しみなく提供し、入所している少年たちを支援し続けたのである。彼にとってボーイズ・リパブリックは、自らの人生を変えてくれた特別な場所であり続けた。
シナトラに見出されて
復員軍人援護法(GI Bill)の支援を利用して、スティーブはニューヨークのサンフォード・マイズナーのネイバーフッド・プレイハウスやHBスタジオで演技を学び始めた。
生活費を稼ぐため、週末にはロングアイランド・シティ・レースウェイでモーターサイクルレースに出場していた。そしてその賞金によって、彼は長年憧れていた最初の“宝物”を手に入れた。ハーレーダビッドソンとトライアンフの2台のオートバイだ。
1955年、さらなる俳優としてのチャンスを求めてカリフォルニアへ移住したマックイーンは、初めて映画出演の機会を得る。作品は、ロバート・ワイズ監督、ポール・ニューマン主演の『傷だらけの栄光』(1956年)で、彼はごく小さな役を演じた。
初主演作は1958年のSFホラー映画『マックイーンの絶対の危機(ピンチ)』だった。しかし、真の転機となったのは1959年の映画『戦雲』への出演である。
この作品への起用を後押ししたのは、ほかならぬフランク・シナトラだった。シナトラは若きマックイーンの中に特別な才能を見いだし、彼が十分に存在感を発揮できるよう、クローズアップの多用を促したという。この役柄によって、マックイーンの代名詞となる“反骨心あふれるタフガイ”のイメージが形作られた。
こうした飛躍の時期に、マックイーンが愛した時計のひとつがハンハルト〈417〉クロノグラフである。彼が着用していたのが、ステンレススティール製でリファレンス末尾に「ES」が付くモデルだったのか、それともクロームメッキを施した真鍮ケース仕様だったのかは、現在も明確には分かっていない。
しかし多くの研究家やコレクターは、マックイーンが着用していたのは〈417 ES〉だったと考えている。

▲ 左:1963年5月、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅にて。ソファに腰掛けたスティーブ・マックイーン。右:1963年6月、カリフォルニア州パームスプリングス近郊の砂漠地帯で、拳銃を構えて狙いを定めるマックイーン(Photo by John Dominis/The LIFE Picture Collection via Getty Images)
憶測はさておき、ひとつ確かなことがある。それは、1963年に撮影された有名な写真――カリフォルニア州パームスプリングスの自宅でソファに腰掛け、拳銃を構えるスティーブ・マックイーンの姿を捉えたあの写真で、彼が右手首にバンドストラップ仕様のハンハルト〈417〉を着けているということだ。マックイーンが417を非常に気に入っていたことは間違いない。
Revolutionファウンダーのウェイ・コーは次のように語る。
「彼のハンハルト417への愛着は、1964年にマックイーンがオートバイレースのスペシャリストとして知られるエキンズ兄弟とともに東ドイツを訪れ、国際モーターサイクル六日間競技会(ISDT)でアメリカ代表を務めた際にもはっきりと見て取ることができます」

▲ 1964年9月、東ドイツ(当時のドイツ民主共和国)エアフルト。エンデューロの世界的大会である国際モーターサイクル六日間競技会(ISDT)に参加したスティーブ・マックイーン。アメリカ代表団の旗手を務めた彼は、ゼッケン278番を付けたトライアンフ750ccを駆って競技に臨んだ。マックイーンは、このアメリカ代表チームを自らの資金で支援していたことでも知られる。チームは親交の深かったモーターサイクル仲間たちによって編成されていた。写真は、ヘルメット姿のマックイーンが競技中、マシンを押しながら歩いている様子を捉えたものである(Photo by Francois Gragnon / Paris Match via Getty Images)
ISDTはしばしば“オフロード耐久モーターサイクルレースのオリンピック”と称される大会だ。この競技はイングランドのカーライルで創設され、世界各国から5人編成の代表チームを招き、オフロード走行技術を競わせるものだった。
当時のマックイーンはアメリカ屈指の腕前を持つモーターサイクルライダーでもあった。まだ巨額の保険契約が当たり前ではなかった時代でもあり、彼は1963年公開の映画『大脱走』におけるバイクスタントの大半を自ら演じていた。もっとも、有名な鉄条網越えのジャンプだけは例外だった。
このシーンを担当したのは、マックイーンのスタントマンであり、ISDTチームの仲間でもあったバド・イーキンズだ。彼は第二次世界大戦時のBMWに見せかけたトライアンフ〈TR6C〉に乗って、その伝説的なジャンプを見事に成功させた。
1960年代、イーキンズは7回のISDTに出場し、金メダル4個、銀メダル1個を獲得している。
1964年のISDTに出場したマックイーンを含むアメリカ代表チームは“カリフォルニア・ボーイズ”の愛称で呼ばれた。彼らはISDTに出場した最初のアメリカ代表チームであり、マックイーンは開会式で星条旗を掲げるという栄誉を担ったのである。
映画『華麗なる賭け』
1966年頃になると、スティーブ・マックイーンが所有していた次の時計として、ジャガー・ルクルト〈メモボックス〉の存在が確認できるようになる。
マックイーンが所有していたメモボックスの具体的なリファレンスについてはほとんど分かっていない。しかし、この時計は長く彼の手元にあり、1968年公開のクライム映画『華麗なる賭け』にも登場している。
『華麗なる賭け』は、マックイーンのキャリアにおいて重要な作品である。なぜなら、この作品によって“キング・オブ・クール”は、それまでの反抗的なアウトサイダー役のイメージから脱却し、俳優としての幅広い演技力を披露する機会を得たからだ。
また、劇中でマックイーンが身に着けた時計の数々も素晴らしい。洗練された大富豪トーマス・クラウンというキャラクターにふさわしく、映画冒頭ではクラウンが金無垢のパテック フィリップ製懐中時計を確認する場面が登場する。この時計は、フォブを備えたダブル・アルバートチェーンで着用されている。
続いて劇中に登場するのが、前述のジャガー・ルクルト〈メモボックス〉である。
そして最後に登場する時計が、個人的にも特に魅力的だと思うカルティエ〈タンク サントレ〉だ。この時計はしばしば〈タンク アメリカン〉と誤って紹介されるが、それはあり得ない。なぜならタンク アメリカンが発表されたのは1989年であり、『華麗なる賭け』の公開から20年以上も後のことだからである。
もっとも、ここで明らかにしておくべきなのは、劇中で使用されたパテック フィリップの懐中時計とタンク サントレは、いずれもマックイーン本人の私物ではなかったという点である。これらはあくまでトーマス・クラウンという役柄を演出するために用意された小道具だった。

▲ マックイーン演じる主人公トーマス・クラウンはダブル・アルバートチェーンで飾られたパテック フィリップの金無垢懐中時計を愛用している。

▲左: 1967年8月11日、マサチューセッツ州ボストン。映画『華麗なる賭け』の撮影中、街のマーケットで女優フェイ・ダナウェイに桃を差し出すスティーブ・マックイーン。彼の腕には、劇中でも着用しているジャガー・ルクルト〈メモボックス〉が確認できる。右:映画『華麗なる賭け』の一場面。トーマス・クラウンの腕元にはカルティエ〈タンク サントレ〉が確認できる。
マックイーンのものとされる時計には、実際には彼が所有していなかったものも数多くある。一方で、彼のクルマやモーターサイクルへの情熱、そして自身のために収集した膨大なコレクションについては、きわめて詳細に記録されている。
そこでまず触れるべきは、マックイーンの“跳ね馬”への愛、なかでも彼の1963年製フェラーリ〈250 GT ベルリネッタ・ルッソ〉シャシーナンバー4891である。このクルマは、最初の妻ニール・アダムスが、スティーブの34歳の誕生日に贈ったものだった。

▲ 34歳の誕生日に最初の妻ニール・アダムスから贈られた、シャシーナンバー4891の1963年製〈フェラーリ 250 GT ベルリネッタ・ルッソ〉とともに写るスティーブ・マックイーン(Image: gq-magazine.co.uk)
ジャーナリストのニック・ラフォードは、スティーブ・マックイーンが実際に所有していたルッソを探し出し、自ら運転する機会を得た体験を記事にしている。
彼は次のように語っている。
「いよいよクルマがスタートラインに着く。この上なく素晴らしい瞬間だ。イグニッションキーをひねると、エンジンは勢いよく目を覚ました。咳き込んだり、不調そうな素振りを見せたりすることを予想していたが、そんなことはまったくない。現代のフェラーリ458と同じくらい滑らかにアイドリングする。ルッソの心臓部には、フェラーリ250 GTOに搭載された3リッターV12エンジンをデチューンしたユニットが収められている。いわばルッソの近縁種ともいえる存在だ。最大の違いは、GTOが6基のツインチョーク・ウェーバーキャブレターを備えるのに対し、このルッソは3基であることだろう。シャシーはGTOと共通で、ディスクブレーキも同じものが採用されている」
マックイーンのコレクションのなかでも初期に加わった1台が、1956年製ジャガー〈XKSS〉、シリアルナンバー713である。生産台数わずか16台という希少車であり、マックイーンが二度にわたって買い戻したことでも知られている。“グリーン・ラット”の愛称で呼ばれたこのクルマは、彼がハリウッドの街中であまりにも大胆な運転を繰り返したため、二度も運転免許停止処分を受ける原因となったクルマでもあった。
もっとも、このクルマについては私の受け売りよりも実際に走る姿を見たほうが早いだろう。ジェイ・レノ(アメリカのコメディアン、テレビ司会者、カーコレクター)が満面の笑みを浮かべながらステアリングを握る『ジェイ・レノズ・ガレージ』(ジェイ・レノが司会を務める自動車専門番組)のエピソードは、その魅力を存分に伝えている。
なお、このジャガー XKSSは現在、米国カリフォルニア州ロサンゼルスのピーターセン自動車博物館のコレクションとして保存されている。

▲ ロサンゼルスの街を疾走するスティーブ・マックイーンと、彼が所有した1956年製ジャガー〈XKSS〉。シリアルナンバー713を持つこの個体は、わずか16台しか製造されなかった希少車である。(Image: Blake Z. Rong / autoweek.com)
これはあくまでスティーブ・マックイーンの時計についての記事だが、クルマの話題に寄り道したついでに、最後にもう1台だけ触れておきたい。
それが、1968年の映画『ブリット』に登場したマックイーンのフォード〈マスタング GT390 ファストバック〉である。もちろん、このクルマはマックイーンの私有車ではなかった。しかし、“キング・オブ・クール”と呼ばれた男が、アメリカを代表するマッスルカーのステアリングを握る――これほど絵になる組み合わせもなかった。
そして、このクルマこそが、今日では“サンフランシスコ・カー・チェイス”として知られる、ハリウッド映画史上もっとも有名なカーチェイスシーンの主役だったのである。この車両には6.4リッターのV8エンジンと4速マニュアルトランスミッションが搭載されていた。エンジンはその後にオーバーホールされているが、映画撮影当時の仕様を色濃く残している。
また撮影のため、強化サスペンションの装着や出力向上のチューニング、さらにはカメラ搭載用マウントの追加など、大幅な改造が施されていた。
なお、『ブリット』の撮影では実際に2台のマスタングが使用された。1台は撮影終了後に廃車となったが、もう1台は2020年のメカム・キシミー・オークションで374万ドルで落札された。この結果、同車は世界でもっとも高額で取引されたフォード・マスタングとなった。

▲ スティーブ・マックイーンと、映画『ブリット』で伝説的なカーチェイスシーンを生み出したフォード〈マスタング GT390 ファストバック〉。2020年のメカム・キシミー・オークションで374万ドルで落札され、世界でもっとも高額で取引されたフォード〈マスタング〉となった。
クルマの話題が続いたので、最後に1台だけモーターサイクルについても触れておきたい。正直なところ、私はバイクについてそれほど詳しくないため、この部分はウェイに意見を求めた。彼がプッシュしたのがメティス〈Mk3 デザートレーサー〉だった。
調べ始めて間もなく、なぜ彼がこのモデルを推したのか理解できた。メティス Mk3は、オフロードレースのために生み出された傑作マシンだったのである。
マックイーンは、自身の愛車をさらに砂漠レース仕様へと仕立て上げていた。そして1966年11月には、このバイクについて次のように語っている。
「このマシンは、私がこれまで所有したどのバイクよりも優れたハンドリングを備えている」
それほどまでに、マックイーンはメティス Mk3 デザートレーサーを高く評価していたのだ。

▲ 1966年、スティーブ・マックイーンは自身が所有していたメティス〈Mk3〉について、次のように語っている。「このマシンは、私がこれまで所有したどのバイクよりも優れたハンドリングを備えている!」
ロレックス〈サブマリーナー〉
さて、ここからは再び時計の話題に戻ろう。時代は1970年である。 熱心なウォッチスポッターとして知られるニック・グールドの綿密な調査によれば、この年がスティーブ・マックイーンの右手首にロレックス〈サブマリーナー〉が初めて確認された年だという。
さらにグールドは、その時計が着用されていた具体的な場面まで特定しており、それは1970年のレイク・エルシノア・グランプリだった。
しかし、マックイーンとサブマリーナーの組み合わせとしては、同じ1970年のセブリング12時間レースで着用していた姿のほうが広く知られている。このイベントでは数多くの写真が残されていることから、本稿ではセブリングでのエピソードを中心に見ていくことにしたい。

▲1970年3月21日、セブリング12時間レースに出場したスティーブ・マックイーン。彼の右手首には、ロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5512がはっきりと確認できる(Photo by Bernard Cahier/Getty Images)

▲1970年のセブリング12時間レースでポルシェ〈908/02〉を駆るスティーブ・マックイーン。チームメイトのピーター・レブソンとともに総合2位という見事な成績を収めた(Photo by Bernard Cahier/Getty Images)
チームメイトのピーター・レブソンとともにポルシェ〈908/02〉を駆ったマックイーンは、3リッタークラスで優勝を果たした。総合優勝こそマリオ・アンドレッティ率いるチームに譲ったものの、その差はわずか23秒だった。
しかも驚くべきことに、マックイーンはレースのわずか2週間前にモーターサイクル事故で負傷しており、左足にギプスを装着したままレース全体を走り切っていたのである。その状況を考えれば、この結果は実に見事なものだったと言えるだろう。
さらに、冒頭で触れたrolexmagazine.comのジェイクは、このセブリングでマックイーンが着用していたサブマリーナーが、ロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5512であったことを調べ上げている。

▲ モーターサイクル事故で負傷し、松葉杖をついた状態で1970年のセブリング12時間レースに臨むスティーブ・マックイーン。右手首には、愛用していたロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5512を見ることができる(Image: rolexmagazine.com)
翌1971年には、映画『栄光のル・マン』が公開された。
この作品といえば、劇中で着用されたホイヤー〈モナコ〉の伝説があまりにも有名である。映画本編はもちろん、公開当時のプロモーション素材、さらには今日に至るまで私たちの記憶に刻み込まれたマックイーンのイメージといえば、やはりモナコを思い浮かべるだろう。
しかし、映画を注意深く見直してみると、スクリーンに最初に登場する時計は実はモナコではない。そこに映っているのは、マックイーン自身が所有していたサブマリーナー Ref. 5512なのである。
さらに、『栄光のル・マン』の撮影現場で撮られた数多くのオフショット写真を検証すると、意外な事実が浮かび上がる。撮影上の理由でモナコを着用しなければならない場面を除けば、マックイーンはほぼ常に自身のサブマリーナーを右手首に着けていたのである。
つまり、モナコは映画のための時計だったが、サブマリーナーこそが、当時のマックイーンにとってデイリーウォッチだったと言えるのかもしれない。

▲『栄光のル・マン』の撮影現場でモーターサイクルにまたがるスティーブ・マックイーン。右手首にはホイヤー〈モナコ〉を着用している(Image: Le Mans / Solar Productions)

▲ 1970年6月、フランス・ル・マンで行われた映画『栄光のル・マン』の撮影現場にて、レーシングドライバーのマイケル・ディレイニーを演じるスティーブ・マックイーン。右手首にはロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5512を着用している(Photo by Anwar Hussein/Getty Images)

▲ 映画『栄光のル・マン』の撮影現場で、息子チャド・マックイーンとくつろぐスティーブ・マックイーン。劇中ではホイヤー〈モナコ〉を着用していたが、この写真では自身のロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5512を身に着けている(Photo by Anwar Hussein/Getty Images / Forbes.com)
次にマックイーンのサブマリーナーが確認できるのは、1973年の映画『パピヨン』の撮影時である。撮影現場で撮られた有名なスナップ写真には、立入禁止を示す看板の前に立ち、コーヒーを飲みながら休憩する無精ひげ姿のマックイーンが写っている。
その気取らない一枚は、当時の彼の素顔を伝える貴重な記録であると同時に、愛用していたサブマリーナーを鮮明に捉えた写真としても知られている。そして興味深いことに、このとき彼の手首にあったのは、それまで確認されていた〈サブマリーナー〉Ref. 5512ではなく、〈サブマリーナー〉Ref. 5513だったのである。

▲ 映画『パピヨン』の撮影現場でのスティーブ・マックイーン。右手首にはロレックス〈サブマリーナー〉を着用している(Image: Ron Galella)
1974年の映画『タワーリング・インフェルノ』では、マックイーンが再びスクリーン上でサブマリーナーを着用している姿を見ることができる。しかも共演者は、あのポール・ニューマンであった。
もっとも、この作品の豪華さはそれだけにとどまらない。フレッド・アステア、フェイ・ダナウェイ、スーザン・ブレイクリー、さらには驚くべきことに“ザ・ジュース”ことO・J・シンプソンまで出演しており、まさにオールスターキャストによる超大作だった。
晩年のマックイーンは、自ら映画製作にも積極的に関わるようになる。主演も兼ねた作品としては、『民衆の敵』(1978年)、そして『トム・ホーン』(1980年)が挙げられる。
しかし1978年は、彼にとって不運な年でもあった。執拗な咳に悩まされるようになったのである。マックイーンは喫煙をやめ、さまざまな治療を受けたものの、残念ながら症状は改善しなかった。
そして1979年12月、ついに胸膜中皮腫と診断される。この病気はアスベスト被爆によって引き起こされるがんであり、当時は有効な治療法が存在しなかった。
その診断を受けたのは、『ハンター』(1980年)の撮影を終えた直後のことだった。この作品はマックイーン最後の主演映画であり、同時に彼がスクリーン上でサブマリーナーを着用した最後の作品でもある。このとき彼の腕にあったのは、ロレックス〈サブマリーナー〉Ref. 5513だった。サブマリーナーは映画の中だけの時計ではなかった。彼は私生活でも頻繁にこの時計を着用していた。
ジェイク・エーリッヒは次のように記している。
「スティーブ・マックイーンはレースとクルマ、そしてモーターサイクルの収集に夢中だった。晩年には飛行場の格納庫を住居代わりにし、そこで希少なクルマやモーターサイクルのコレクションを保管していた。下の写真では、マックイーンが非常に古いハーレーダビッドソンを眺めている姿を見ることができる」
ジェイクが言及している写真には、Tシャツとジーンズ姿で、豊かなひげを蓄えた晩年のマックイーンが写っている。ヴィンテージのハーレーダビッドソンにまたがるその右手首には、見慣れたオイスターケースとブレスレットが確認できる。それは紛れもなく、彼が長年愛用したロレックス〈サブマリーナー〉だったのである。

▲ 1980年公開の映画『ハンター』の一場面。スティーブ・マックイーンの右手首には、ロレックス〈サブマリーナー〉が確認できる。(Image: rolexmagazine.com)

▲ 晩年のマックイーンは、希少なクルマやモーターサイクルのコレクションを保管するため、飛行場の格納庫を住居兼ガレージとして使用していた。写真は、彼が所有していた初期のヴィンテージ・ハーレーダビッドソンの1台を眺めている様子を捉えたものだ。そして、その手首にはもちろん、愛用のロレックス〈サブマリーナー〉が着けられている(rolexmagazine.com)
スティーブ・マックイーンは1980年11月7日、心臓発作によりこの世を去った。しかし、彼が残した遺産は数多くの映画作品を通じて今も生き続けている。その功績はまさに偉大なものだ。
ただし、時計愛好家の世界においては、ひとつの不公平が存在する。マックイーンの名はいまだに、実際には所有していなかったロレックスや、映画の中でのみ着用したホイヤー〈モナコ〉と結び付けられることが多い。
一方で、彼が本当に所有し、日常的に愛用していた時計――たとえばハンハルト〈417〉やジャガー・ルクルト〈メモボックス〉、そして正真正銘の“マックイーンのロレックス”である〈サブマリーナー〉――は、それほど語られていないのである。
ジェイク・エーリッヒによるスティーブ・マックイーンとサブマリーナーに関する徹底的な調査は、さらに興味深い事実も明らかにしている。
「スティーブには、自分が信頼し、大切に思っていた人々へ、刻印入りの時計を贈るという性分があったのです」
その代表例が、友人のスタントマン、ローレン・ジェーンズに贈られたサブマリーナーである。では、マックイーン自身が所有していたサブマリーナーはどうなったのだろうか。この点についても、ジェイクは有力な証言を得ている。
「私はこの記事(『なぜスティーブ・マックイーンがローレン・ジェーンズに“問題のサブマリーナー”を贈った可能性が高いのか』)の取材でチャド・マックイーンにインタビューしました。その際、彼は父親から生前に譲り受けた2本の異なるロレックス サブマリーナーを所有していることについて語ってくれました。将来的には、それらのサブマリーナーについて、詳細な来歴を含めた記事を書くつもりです」
というわけで、この長きにわたる“マックイーンの本当の時計”をめぐる話も、これで正式に終幕である。
