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「独立時計師」を作った男——ジョージ・ダニエルズの生涯

Editorial

コーアクシャル脱進機の発明者として最もよく知られるジョージ・ダニエルズだが、その功績は決してそれだけにとどまらない。彼の生涯は、伝統的な時計製造の限界に挑み続けた時計師の物語でもある。ダニエルズは、ひとりの時計師が時計の設計、機構開発、装飾、組み立てまで、そのすべを最高水準で成し遂げることができると証明した。そして、その姿勢と実践によって、現代の独立時計師という存在の礎を築いたのである。

Editorial

The Man Who Made Time His Own: George Daniels and the Birth of Independent Watchmaking

「独立時計師」を作った男——ジョージ・ダニエルズの生涯

コーアクシャル脱進機の発明者として最もよく知られるジョージ・ダニエルズだが、その功績は決してそれだけにとどまらない。彼の生涯は、伝統的な時計製造の限界に挑み続けた時計師の物語でもある。ダニエルズは、ひとりの時計師が時計の設計、機構開発、装飾、組み立てまで、そのすべを最高水準で成し遂げることができると証明した。そして、その姿勢と実践によって、現代の独立時計師という存在の礎を築いたのである。

by Wei Koh . Aug 19, 2026

「機械」を愛する男

 もしジョージ・ダニエルズの人生が映画になり、ベネディクト・カンバーバッチが彼を演じるなら、私はこんな場面から始まってほしいと思う。

 暗い画面の中から、地鳴りのようなエンジンのアイドリング音が響いている。やがて画面に現れるのは、1929年製の4½リッター・スーパーチャージド・ベントレー。真上からの映像で、その斜めに停まった大きな車体に、ひとりの男がゆっくりと近づいてくる。

 場面は、イングランド西部ヘレフォードシャーの細い田舎道へ移る。両側には生け垣が迫り、少し大きなクルマならサイドミラーをこすってしまいそうなほど狭い道だ。そこを、巨大なベントレーがものすごい勢いで走っている。長いボンネットは革製のストラップで固定され、スーパーチャージャーが甲高い音を響かせている。

 ステアリングを握るのは、60代の男。長年、金属を削り、磨き、精密な部品を作り続けてきた職人らしい力強い腕を持つ。屋根も十分な風防もない〈ブロワー・ベントレー〉の運転席で、風を受けながら低く身を構えている。

 その男こそ、ジョージ・ダニエルズ。現代の独立時計製造の礎を築いた人物である。精密な脱進機を完成させるためなら、何時間でも作業台に向かうことのできた男が、今度は2トン近いスーパーチャージド・ベントレーを操り、馬車のために造られたような狭い道を猛烈な速度で駆け抜けていく。

 この対比こそが、ジョージ・ダニエルズという人物をよく表している。繊細な時計師であると同時に、機械そのものを心から愛した、豪快な男でもあったのだ。

ジョージ・ダニエルズ CBE(大英帝国勲章受章者)、FBHI(英国時計協会フェロー)、FSA(ロンドン考古協会フェロー)、AHCI(独立時計師アカデミー会員)(Image:Phillips)

 コーアクシャル脱進機について語る前に、そしてインディペンデント・ダブルホイール脱進機、トゥールビヨン、ルモントワール、さらにはダニエルズが作業台の上に置いて「墓場」と呼んでいた小さなブリキ箱の話に入る前に、まず理解しておくべきことがある。

 ジョージ・ダニエルズにとって、クルマと時計はそれほど違う存在ではなかった。どちらも彼に語りかけてくる「機械」であり、精密な寸法管理や摩擦、そして美しく仕上げられた部品が、意図した通りにぴたりと動き合う瞬間に、彼は大きな喜びを感じていた。

 彼が最初にレストアしたベントレーは、100ポンドで手に入れた、ほとんど廃車同然の1924年製3リッターだった。当時のダニエルズは、週4日、1日16時間を時計修理に費やし、残る1日は丸ごとそのベントレーのために使っていた。

 そして、この人物がマン島でたった一人、素材の金属から歯車、ピニオン、ネジに至るまで、腕時計のすべての部品を手作業で削り出していたことを思い出してほしい。同時に彼は、20世紀に登場した脱進機の中で、根本的に新しい設計として唯一、大量生産へと採用されたコーアクシャル脱進機を発明した人物でもある。

 そう考えると、ジョージ・ダニエルズは、単に「古いクルマが好きな時計師」だったのではないことが分かる。彼は機械の天才であった以上に、まず何よりも、並外れた才能を持つ芸術家だった。そして、その主な表現手段として時計製造を選んだのである。

 ベントレーも、オートバイも、ライカも、そして彼が愛したブレゲの時計も、すべては同じ精神の延長線上にあった。ダニエルズは機械を見ると、その仕組みを理解せずにはいられなかった。そして理解しただけでは満足せず、より良くし、自分自身の発想によってもう一度作り直したくなる人物だったのである。

グッドウッドで愛車ベントレーに乗るジョージ・ダニエルズ(Image:Bentley Spotting)

 これは、そんなジョージ・ダニエルズの精神と創造力の物語である。ダニエルズは、ほとんど完全に独力で、現代における「独立時計師」という存在を形づくった人物でもある。つまり、ひとりの人間が自らの手で時計を設計し、機構を考案し、組み立て、装飾し、名だたるマニュファクチュールの製品に匹敵、あるいはそれを上回る水準にまで仕上げることができる――それを、実際に証明したのである。

 その意味でこれは、現在では当たり前のように存在している独立時計師という一大ジャンルが、どのように生まれたのかという物語でもある。

 フィリップ・デュフォー、フランソワ-ポール・ジュルヌ、カリ・ヴティライネン、デニス・フラジョレ、レジェップ・レジェピ、そしてダニエルズ自身の弟子であるロジャー・W・スミス――。今日、こうした名前によって形づくられている独立時計製造の世界は、ダニエルズが切り拓いたのである。

 彼は、その原型となった英雄である。そして彼の人生は、その後に続く多くの独立時計師たちの物語の原型となった、ひとつの「英雄譚」なのである。

2010年、ジョン・アスプレイとウィリアム・アスプレイが主催した親しい仲間だけのディナーで、特別な〈クロノメーター・スヴラン〉を贈り、師であるジョージ・ダニエルズ(左)に敬意を表するフランソワ-ポール・ジュルヌ(右)

 フランソワ-ポール・ジュルヌは、かつてダニエルズについてこう語っている。

「あなたは先駆者でした。実用性のためではなく、芸術としての時計製造という道を、私たちに最初に示してくれた時計師です」

「椅子はひとつだけ」

 ジョージ・ダニエルズは1926年8月、ロンドン北部のエッジウェアで生まれた。彼自身の回想によれば、家は大家族で非常に貧しく、家の中にあった椅子は、文字どおりひとつだけだったという。その幼少期は、まさにディケンズの小説を思わせるほど過酷なものだった。11人の子供たちが粗末な家で暮らし、父親は昼間はラジオを修理し、夜になると酒に溺れて荒れることもあった。ダニエルズは、父親とも母親とも親しい関係ではなかった。

 さらに言えば、彼には出生の正式な記録すらなかった。両親が彼の誕生時にはまだ結婚しておらず、出生証明書が作られていなかったからである。ダニエルズがその事実を知ったのは、何十年も後、パスポートを申請した時だった。

1950年頃、戦争記念碑から望むエッジウェア・ハイストリート(Image: Maureen Schiller)

 公式な記録には残されていなかったジョージ・ダニエルズの存在を、やがて世の中が認めることになる。5歳のとき、ジョージは家の中で壊れた時計を見つけた。彼はパン切りナイフを使って裏蓋をこじ開けた。すると、その中に広がる機械の世界が、彼に語りかけてきたという。そこで目にしたものが、その後80年にわたる彼の人生を決定づけた。

 何十年も後、ダニエルズはインタビューでこう振り返っている。

「まるで宇宙の中心を見たようだった」

 若きジョージ・ダニエルズは14歳で学校を辞め、マットレス工場で働き始めた。そのかたわら、空いた時間には家々を回って時計の修理を請け負っていた。

 1945年、兵役でスエズに赴いた際にも、彼は仲間の兵士たちの時計を修理し続けた。副収入だけで十分に稼ぐことができたため、2年半の兵役中、軍から支給された給与にはほとんど手をつけなかったという。これは後に、スイスや英国の既存の時計業界にほとんど頼ることなく、自らの道を拓いていく彼の起業家気質を示している。

 除隊時に手元にあったのは50ポンド。そこから彼は自ら仕事を始め、時計の部品ひとつひとつを、すべて手作業で作る方法を独学で身につけていった。歯車、ピニオン、ネジ、針、ケース――時計を構成するあらゆる部品を、自分自身の手で一から作り上げる。その方法は後に、敬意を込めて「ダニエルズ・メソッド」と呼ばれるようになった。

 そして彼は、独学で得た知識を体系化するため、ノーサンプトン・ポリテクニック・インスティテュートの夜間課程で時計学を学んだ。授業は英国時計協会(British Horological Institute)の指導のもとで行われ、ダニエルズは1949年、1950年、1952年にそれぞれ資格を取得している。この学校は現在のシティ・セント・ジョージズ・ロンドン大学へとつながっており、何十年も後、同大学はダニエルズに名誉理学博士号を授与することになる。

1894年創立のノーサンプトン・ポリテクニック・インスティテュートを写した絵葉書。2024年のセント・ジョージズとの統合を経て、現在はシティ・セント・ジョージズ・ロンドン大学となっている。

 ダニエルズのような人物について書くとき、ついその過酷な幼少期をきれいに整え、「貧しい少年が成功をつかんだ」「逆境が天才を育てた」といった分かりやすい物語にしたくなる。

 しかし、ダニエルズ本人は、そうした単純な語られ方を好まなかった。複数の証言によれば、彼は自分の過去について多くを語ろうとせず、私生活を掘り下げようとする記者にはそっけない態度を取ることもあった。そして心の奥では、幼少期の辛い思い出を、長く抱え続けていた。母親は91歳で亡くなる少し前、彼に手紙を書き、自分が与えてしまった「惨めな家庭生活」について謝罪したという。ダニエルズは、その手紙を大切に保管していた。しかし、多くの証言によれば、彼が母親を完全に許すことはなかった。

サム・クラットン――別世界への扉

 偉大な時計師の物語には、その人物の進む道を大きく変える、決定的な出会いがある。熟練した職人としての仕事を、芸術と呼べる領域へと導く出会いだ。アブラアン-ルイ・ブレゲにとって、それはプラスラン公爵だった。ダニエルズにとって、その人物がセシル“サム”クラットン CBEである。

 クラットンは自動車愛好家であり、古時計の研究家でもあり、ヴィンテージ・スポーツカー・クラブの創設メンバーのひとりだった。そして何より、当時のダニエルズが入り込めない上流の社交界やコレクターの世界に通じていた人物でもあった。

 ふたりが出会ったきっかけは、時計ではなくクルマだった。戦前の機械工学に対する共通の情熱を通じて、ふたりは親交を深めていった。そしてクラットンこそが、ダニエルズを本格的なアンティークウォッチ収集の世界へと導き、A.-L. ブレゲの仕事を深く知るきっかけを与えた人物だった。

 1969年、ダニエルズは自分自身の楽しみのために、完全な手作りの時計を一本完成させた。その後、この時計に買い手を探すことを決め、クラットンが1,900ポンドで購入した。その時計は数十年後、アメリカのオークションに再び姿を現し、20万ポンドを超える価格で落札されることになる。

イタリアの歴史的名車、イターラのステアリングを握るセシル“サム”クラットン(Image: Bonhams)

 この時代を考えると、ダニエルズが歩んだ道がどれほど異例だったかは、いくら強調してもしすぎることはない。当時、世界のどこを見ても、ひとりの時計師が原材料の状態からすべての部品を手作業で作り、一本の時計を完成させるという例はほとんど存在しなかった。

 スイスの名門メゾンは、以前から続くエタブリサージュ方式に依存していた。これはダニエル・ジャンリシャールの時代から発展してきた分業システムで、ケース職人、文字盤職人、脱進機の専門家など、それぞれの職人が担当部品を作り、最終的にメゾンがそれらを組み上げて、自らの名を冠して完成品とする仕組みである。

 それに対してダニエルズが示したのは、まったく逆の発想だった。十分な執念と、作業台に向かう膨大な時間さえあれば、たったひとりの人間でも、時計をゼロから作り上げるために必要な30以上もの異なる技術をすべて身につけられる――という考え方である。当時としては、これは現代に前例のない挑戦だった。

 ダニエルズは約60年にわたるキャリアの中で、この方法によって手作りした時計をわずか25本しか残していない。一本を完成させるのにおよそ1年、作業時間にして2500時間以上を要したからだ。のちに弟子のロジャー・W・スミスは、その功績を端的にこう表現している。

「ダニエルズは、現代において初めて、一本の時計を最初から最後まで、ひとりで、しかも博物館級の水準で作り上げた人物だった」

ジョージ・ダニエルズと、その弟子ロジャー・W・スミス。

 経済的な成功を手にしたダニエルズは、やがてマン島へ移り住んだ。風の強いその島で、彼は庭を見渡す工房を構えた。そこには、ブレゲと同じ方法で時計を作るために集めた、ヴィンテージの工作機械が並んでいた。しかし後に彼は、現代的な高精度ボーリング盤や旋盤のほうが、自分の仕事には適していることに気づいていく。

 そして、このマン島の工房から、ダニエルズは時計製造の歴史を二度にわたって変えることになる一連の作品を生み出していった。

亡くなるわずか4年前、マン島の工房に立つジョージ・ダニエルズ(Image: Quill & Pad)

アブラアン-ルイ・ブレゲの亡霊

 ジョージ・ダニエルズの物語を語るには、まず、彼が生まれる100年以上も前に亡くなったひとりの人物への強い憧れから始めなければならない。その人物こそ、アブラアン-ルイ・ブレゲである。

 ダニエルズにとってブレゲは、単なる研究対象ではなかった。むしろ、時計製造の世界における神のような存在だった。大胆な機械的発想と、抑制の効いた知的な美しさ。そのふたつを兼ね備えたブレゲの時計は、ダニエルズが「時計製造とはこうあるべきだ」と考えていた理想そのものだった。

 やがてダニエルズは、『The Art of Breguet』を著す。この本は、ブレゲの技術革新を示す100点以上の図版を収録した詳細な研究書で、それぞれの図には、ダニエルズ自身による綿密な技術分析が添えられている。現在でもこの本は、ブレゲの仕事を研究するうえで、決定版といえる一冊である。

左:『The Art of Breguet』(ジョージ・ダニエルズ著)のタイトルページ(Image: Bukowskis) 右:ブレゲが手がけたムーブメントの細部(Image: Bukowskis)

「20世紀のブレゲ」と評されることがあるダニエルズだが、それは決して大げさな表現ではない。そしておそらく本人も、持ち前の飾らない自信とともに、その評価を受け入れただろう。しかしダニエルズにとって、ブレゲは単なる憧れの人ではなかった。ブレゲのアイデアは、ダニエルズが生涯を通じて追い求めながら、ついに完全な形では実現できなかったある機構の出発点であった。

 1789年、ブレゲは「エシャップマン・ナチュレル(échappement naturel)」、すなわち「ナチュラル・エスケープメント」と呼ばれる脱進機を開発した。これは、一般的なレバー脱進機につきまとう摩擦をなくそうとする、非常に洗練された試みだった。そのために用いられたのが、2枚のガンギ車である。

 発想そのものは、疑いなく天才的だった。しかし18世紀の工房で実現できる加工精度では、これを安定して量産することは不可能だった。ブレゲのナチュラル・エスケープメントが連続生産されることはなく、その後ほぼ2世紀にわたり、「美しいが未解決の問題」として残されることになる。そして、まさにそうした未解決の問題こそ、ジョージ・ダニエルズの頭脳が放っておくことのできないものだった。

4分で1回転するトゥールビヨンとナチュラル脱進機を備えたブレゲ No.1188。12枚の歯を持つ大きなガンギ車は、その下にある歯車によって駆動され、この歯車がピニオンを回す。さらにそのピニオンが、3枚の歯を持つもう一方のガンギ車を駆動する。

ベントレー、モーターサイクル、そして美しき機械に宿る規律

 再び時計工房へと戻る前に、少しだけガレージに立ち寄ってみよう。というのも、ダニエルズの時計製作を理解するためには、まず彼がより広い意味で「機械」というものと、どのような関係を築いていたのかを知る必要があるからだ。

 そして、その関係が最も鮮烈に、最も身体的に、そして何より、気取らない喜びに満ちたかたちで表れていたのが、彼が生涯にわたって情熱を注いだヴィンテージ・ベントレーだった。

プレスコット・ヒルに立つジョージ・ダニエルズ。

 彼が最初に手に入れたクルマは、1951年に購入した1932年製のMG J2だった。ところが購入からわずか2時間でクランクシャフトが折れてしまう。幸先のいいスタートとは到底言えなかったが、ダニエルズ自身は後に、この出来事こそが、彼の言うところの「アマチュア自動車整備士」としてのキャリアを始めるきっかけになったと振り返っている。

 その5年後、彼のもとにやってきたのが、ガーニー・ナッティング製コーチワークを備えた1924年製3リッター・ベントレーだった。ほとんど廃車同然の状態だったこのクルマを、彼は100ポンドという大枚をはたいて購入し、たったひとりでレストアしていく。しかもその作業は、週のうち4日を時計、1日をクルマに充てるという、かなり過酷なスケジュールの中で進められた。そして、このベントレーこそが、ロンドン南東部ペンジで労働者階級の時計修理職人として生きていたダニエルズには、それまで縁のなかった新しい社交の世界への扉を開いた。

 1959年にはヴィンテージ・スポーツカー・クラブに入会し、その後、生涯にわたって会員であり続けた。さらにベントレー・ドライバーズ・クラブのサーキット・デーを通じて、先に触れたサム・クラットンと知り合うことになる。クラットンこそ、ほどなくしてダニエルズをブレゲとアンティークウォッチ収集の世界へと導いた人物だった。

 20世紀の時計史における、実に味わい深い事実のひとつは、ジョージ・ダニエルズのその後のキャリア――コーアクシャル脱進機、トゥールビヨン、そしてブレゲへの深い研究――を逆算してたどっていくと、その出発点が、一本の折れたクランクシャフトに行き着くことだ。

プレスコット・ヒルクライムで、自身のブロワー・ベントレーを駆るジョージ・ダニエルズ。

 やがてダニエルズのコレクションは、26年間所有した1954年製ベントレー〈Rタイプ・コンチネンタル〉、かつてサム・クラットン自身が所有していた1908年製グランプリ・イターラ、通称“フロレッタ”、そしてマン島での日常の足として使っていた1974年製ジャガー〈Eタイプ〉へと広がっていった。近所のフィッシュ&チップス店へ出かけるときにも、このEタイプを使っていたと、ダニエルズは好んで語っていたという。

 自伝『All in Good Time』で本人が記しているところによれば、彼が最も気に入っていたのは、そうした華やかな名車たちではなかった。お気に入りは、かつて第4代クレイヴン伯爵が所有していた1907年製ダイムラー TP 45だった。ダニエルズはこのクルマについて、「その風変わりな振る舞いや、ときおり機嫌を損ねるようなところを差し引いても……」と記している。

 シューシューと音を立てるキャブレターと、むき出しのバルブギアを備えたこのダイムラーこそ、彼にとって愉快なドライブにふさわしい一台だった。急ぐ用事など何ひとつなく、ただ食べ、飲むことだけを楽しみながらフランスを気ままに走る。そんな旅のための完璧なクルマだったのである。

 ダニエルズは、これらのクルマを眺めて楽しむだけではなかった。実際にレースにも出場し、高齢になるまで競技を続けていた。本人の少し皮肉を込めた回想によれば、最終的にはロイヤル・オートモービル・クラブから、パドックに立つには「少々年を重ねすぎた」と断じられたという。

 モーターサイクルにも、彼はほかのあらゆる分野と同じ鑑識眼を向けた。1973年から1976年にかけて生産されたBMW R90Sのスポーツツアラーを2台、実質的には公道走行登録されたレーシングマシンともいえるMVアグスタ 750 アメリカを2台、さらにクラブマン仕様の1959年製ノートン〈インターナショナル〉など、小規模ながら充実したコレクションを築いていた。

 そして、ダニエルズのさまざまな情熱がどれほど相互に影響し合っていたかを象徴するのが、カメラである。サム・クラットンと時計研究の決定版ともいえる『Watches』を共著した際、掲載写真を撮影するために購入したライカをきっかけに、彼はまた新たな収集の世界へと足を踏み入れた。やがてそのコレクションは、27台にまで膨れ上がった。

1932年製アルファ ロメオ〈8C 2300〉を駆るジョージ・ダニエルズ。

 エンジン愛好家たちの世界を通じて、ダニエルズは生涯でも最も重要な友情のひとつを築くことになる。その相手が、当時まだ若い地方自治体の測量技師だったデイヴィッド・ニューマンだ。のちにダニエルズの約50年来の親友となり、ジョージ・ダニエルズ・エデュケーショナル・トラストの会長を務めた人物である。

 ふたりの友情のきっかけもまた、ガレージ建設に関する相談と、ヴィンテージカーへの共通の情熱だった。ある日の午後、ふたりはボディの載っていないむき出しのベントレーのシャシーを、サウス・ノーウッドの街中を人力で押して運んだ。警察署の前を通り、鉄道橋を越えて進んだ。その光景を見ようと、まるでサッカーの試合でも始まるかのような数の見物人が集まったという愉快な逸話も伝えられている。

インディペンデント・ダブルホイール脱進機──ひらめきが生んだ傑作

 ダニエルズが生み出した二つの偉大な脱進機のうち、最初の発明は、後に登場するもうひとつの発明ほど広く知られてはいない。だが、ダニエルズ本人にとっては重要な存在であり、彼がブレゲに捧げたオマージュでもあった。

 1970年代半ば、ダニエルズは、卓越した才能を持ちながら十分に評価されてこなかった英国人時計師、デレク・プラットの協力を得て、ブレゲがかつて構想しながらも完全には解決できなかった問題に取り組んだ。その問題とは、従来のレバー脱進機に生じる滑り摩擦である。接触面での摩擦は時間の経過とともに潤滑状態の変化や摩耗を招き、結果として精度を損なう要因となる。ダニエルズが目指したのは、こうした滑り摩擦のない脱進機だった。

 この研究の直接的なきっかけとなったのが、アメリカの実業家で時計コレクターでもあったセス・アトウッドである。ロックフォード・タイム・ミュージアムの創設者でもあるアトウッドは、ロジャー・スミスが後に表現したところの「それまで誰も見たことのないような脱進機」を備えた時計をダニエルズに求めた。

 その要望に対する答えとして生まれたのが、インディペンデント(独立式)ダブルホイール脱進機だった。この機構では、二つのガンギ車を用い、それぞれが完全に独立した香箱と輪列によって駆動される。そして二つのガンギ車からの力はデテント部分で合流し、接触はほぼ摩擦を生じない接線方向で行われる。

 つまりダニエルズは、ひとつの動力源から複雑に力を分配するのではなく、二つの独立した駆動系を用意し、それらを脱進機の一点で統合するという大胆な構成を採ったのである。ブレゲが追い求めた「摩擦のない脱進機」という理想を、ダニエルズ独自の方法で解決した発明だった。

1980年にジョージ・ダニエルズが描いた図をもとにした、独立式ダブルホイール脱進機の作動の流れ。

 2つのガンギ車が、互いに並んで動いている姿を想像してほしい。一般的な脱進機では、ひとつの輪列がひとつのガンギ車を駆動するが、この機構では、それぞれが独自の輪列と、それぞれ専用の香箱を備えている。2つのガンギ車の間には、小さな回転式のデテントが配置されている。そして、どちらのガンギ車をその瞬間に解放するかを決めるのは、往復運動するテンプである。

 テンプが一方向へ振れると、ガンギ車Aが解放される。ガンギ車Aはわずかに回転し、ジュエルを介してテンプへ力を伝える。その力の伝達は、従来のような擦れではなく、転がり接触による、きわめてクリーンなインパルスとなる。テンプが反対方向へ戻ると、ガンギ車Aは再びロックされ、代わりにガンギ車Bが解放され、反対方向への同じような力をテンプへ与える。

 通常のレバー脱進機では、ガンギ車の歯がテンプ側のインパルスジュエルに対して滑りながら接触し、摩擦を伴う。しかしこの機構では、両方のガンギ車がインパルスジュエルに対して擦るような接触をすることはない。接触は接線方向で行われ、押し付けるというより、まるで握手を交わすようなものだ。その結果、摩擦という問題はほぼ完全に排除される。

 ただし、この優雅な解決策には代償がある。それは構造の重複だ。2つの香箱、2組の完全な輪列、そしてそれらを収めるための2倍近いスペースが必要になる。そのため、この機構は腕時計よりも、内部空間に余裕のある懐中時計でこそ、その性能を発揮することができたのである。

ジョージ・ダニエルズによるダブルホイール脱進機の設計スケッチ。

 インディペンデント・ダブルホイール脱進機は、大胆な発想とエレガンスを兼ね備えたエンジニアリングの傑作だった。そして何より、約200年前にブレゲが考案したナチュラル脱進機が抱えていた実用上の問題――2つのガンギ車の間に生じる遊び――を解決するものだった。

 ダニエルズは1976年、セス・アトウッドから依頼された時計を完成させた。その出来栄えに深く感銘を受けたサム・クラットンは、すぐに同じモデルを自身のために注文する。この時計は現在、英国博物館に収蔵されている。

 その後ダニエルズは、この機構をさらに複数の時計へ搭載していった。その中でも最も有名なのが、2本の懐中時計、〈スペース・トラベラー〉と〈スペース・トラベラー II〉である。これらは、2つの独立した輪列によって、それぞれ別々に計算された平均太陽時と恒星時を同時に表示するという、驚異的な機能を備えた時計だった。

 1969年の月面着陸へのオマージュとして製作されたこの時計について、ダニエルズは「火星へのパッケージツアーに持っていくための時計」とジョークを言っていた。

▲ ジョージ・ダニエルズ〈スペース・トラベラー〉(1982年、左)と〈グランド・コンプリケーション〉(1987年、右)(Image: The Hour Glass)

ジョージ・ダニエルズ〈スペース・トラベラー〉(1982年、左)と〈グランド・コンプリケーション〉(1987年、右)のケースバック(Image: The Hour Glass)

 しかし、インディペンデント・ダブルホイール脱進機について理解しておくべき点がある。それは、ロマンティストとしてのダニエルズと、実用を追求する技術者としてのダニエルズを分ける重要な部分でもある。

 彼はこの機構を、その美しさを認めながらも、最終的には行き止まりの発明だと考えるようになった。理由は、独立した2組の輪列を必要とする構造にあった。これは機構を大きく、製造が難しいものにし、そしてダニエルズがより大きな目標としていた腕時計への搭載を、事実上不可能にしていた。さらに、機構上の制約によって、トゥールビヨンとの組み合わせも困難だった。

 最終的に、ダブルホイール脱進機とトゥールビヨンを併せ持つ懐中時計を完成させたのは、独自に研究を続けていた友人のデレク・プラットだった。しかも、その機構には2つの輪列それぞれに対応する2つのコンスタントフォース機構まで組み込まれていた。

 一方、ダブルホイール脱進機を腕時計サイズへと小型化することに成功したのは、ダニエルズがこの機構を考案してから約40年後、そして彼の死から7年後となる2018年のことだった。英国の時計メーカー、チャールズ・フロッドシャムが〈ダブル・インパルス・クロノメーター〉によって、初めてこの機構を腕時計として成立させたのである。

 2021年には、ドイツの独立時計師ベルナルト・レデラーが、ダブルホイール脱進機を中心に据えた腕時計〈セントラル・インパルス・クロノメーター〉を発表した。この時計にも、2つの輪列それぞれにひとつずつ、合計2つのコンスタントフォース機構が搭載されている。そして同年、この作品によってジュネーブ時計グランプリのイノベーション賞を受賞した。

 しかし、ダニエルズ自身がダブルホイール脱進機を搭載した腕時計を製作することはなかった。彼の関心はすでに、さらに大きな意味を持つ、次なるアイデアへと移っていたのだ。

デレク・プラット〈ダブルホイール・ルモントワール・トゥールビヨン〉(1997年)

2019年製インディペンデント・ダブルホイール脱進機を搭載したチャールズ・フロッドシャム〈ダブル・インパルス・クロノメーター〉(ステンレススティール製)(Image: Phillips)

ベルナルド・レデラー〈セントラル・インパルス・クロノメーター〉(Image: Bernhard Lederer)

デレク・プラット──もっと評価されるべき友人

 ここでデレク・プラットについて少し考えてみよう。ジョージ・ダニエルズの時計の文字盤に、プラットの名前が刻まれることはなかった。しかし、2人をよく知る人々の証言によれば、プラットはダニエルズの発明に欠かすことのできない存在だった。

 デイヴィッド・ニューマンの言葉を借りれば、プラットは「ジョージにとって最高の時計師であり友人」だった。モーターサイクルや自動車を愛する仲間でもあった彼は、ダニエルズと単なる技術的な言語を共有していただけではない。機械に対する向き合い方や情熱、そして気質そのものを共有していたのである。

 2人の時計師は、電話や互いの工房で数え切れないほどの時間を過ごした。ダニエルズがプラットの海辺の家を訪れ、時にはプラットがマン島へ渡ることもあった。そこでアイデアを交換し、試作品を検証し、それらはやがてコーアクシャル脱進機へと結実する。

 プラットは、単なる協力者ではなかった。彼は脱進機に対する深い理解を持ち、コーアクシャル脱進機の開発過程でも重要な役割を果たした。製品化へ向けた技術的なアドバイスや、部品製作の面でダニエルズを支えたのである。ダニエルズ自身も後年、プラットについて「デレクの脱進機に対する理解は、私にとって大きな助けになった」と述べている。彼らの関係は、単なる共同研究者という枠を超え、20世紀英国時計史における最も重要な友情のひとつだった

デレク・プラット。

 ニューマン自身の慎重かつ率直な証言によれば、プラットはコーアクシャル脱進機の試作開発において「多くの仕事」を担っていたという。それは膨大な作業であり、ニューマンの見解では、ダニエルズはその貢献に対して十分な評価を与えなかった可能性がある。これは、時計史における偉大な成功に隠されたエピソードである。

 2人の友情はプラットが亡くなるまで続いた。ニューマンによれば、その死はダニエルズに大きな衝撃を与えたという。しかし、コーアクシャル脱進機をめぐるストーリーは、当然のことながら、常にダニエルズ一人を中心に語られてきた。もしジョージ・ダニエルズを、時計製作の神格化された存在ではなく、一人の人間として理解したいのであれば、この友情こそがヒントになるのかもしれない。

2010年、CBE(大英帝国勲章コマンダー章)を授与された際のジョージ・ダニエルズとデイヴィッド・ニューマン。

コーアクシャル脱進機──構想から腕時計搭載まで、24年の軌跡

 ダニエルズがコーアクシャル脱進機の着想を得たのは1975年のことだった。そしてこの発明は、誇張ではなく、1754年にトーマス・マッジがデタッチド・レバー脱進機を特許化して以来、携帯型機械式時計における最も重要な進歩といえる。

 ダブルホイール脱進機が、ブレゲの抱えていた摩擦の問題を、輪列を二重化するという力技によって解決したのに対し、コーアクシャル脱進機は、はるかに洗練された方法でその課題に挑んだ。

 その鍵となったのは、中間車と、同一軸上に配置された2つのガンギ車である。この構造によって、ロック機能とインパルス機能を分離することが可能になった。つまり、テンプへ伝えられる径方向への「押し出し」の力は、もはやガンギ車の歯の上を爪石が滑ることで生じるものではなくなったのである。滑り摩擦が減れば、潤滑油への依存も少なくなる。潤滑油への依存が減れば、時間の経過による性能劣化も抑えられる。

 その結果、理論上、そして最終的には実用面でも、従来の機械式時計をはるかに上回る長期間にわたって、より高い精度を維持できる時計が可能になった。これは、2世紀半にわたり大きな変化のなかった機械式時計の精度追求における、ひとつの転換点となった。

ジョージ・ダニエルズのコーアクシャル脱進機。大きなガンギ車はテンプへ直接インパルスを与え、小さなガンギ車はレバーの爪石へインパルスを伝える。この図では、テンプが反時計回りに回転することで、大きなガンギ車の歯のロックを解除している。その後、小さなガンギ車がレバーを介してテンプへインパルスを与える(Image: Wikipedia)

 最も簡単に説明すると、従来のスイス・レバー脱進機では、ひとつのガンギ車が同時に2つの役割を担っている。ひとつは、ガンギ車を停止させる「ロック」。もうひとつは、そのほんの一瞬後にテンプへ力を与え、振動を維持する「インパルス」である。そして、この2つの動作はどちらも、ガンギ車の歯とレバーの爪石が滑りながら接触することで行われる。この滑り接触こそが、大きな摩擦と摩耗を生む原因だった。

 ダニエルズが考案した解決策は、この2つの役割を完全に分離することだった。コーアクシャル脱進機では、ひとつの軸上に2つのガンギ車を配置する。これが「コーアクシャル(同軸)」という名称の由来であり、さらにそこへ中間車を組み合わせる。

 一方の段は、あらゆる脱進機にある程度避けられない短時間のロック動作を担当する。しかし、テンプの振動を維持するための実際のインパルス――つまりテンプを押して動かす力――は、別の経路で伝達される。テンプ自身のローラーに取り付けられたジュエルへ、「横滑り」ではなく、直接的な「押し出し」として与えられる。

 このように、脱進機における摩擦の大部分を生み出していた滑りや擦れを、ほぼ完全に排除することで、必要な潤滑油の量は大幅に減少する。そして残された潤滑油も劣化しにくくなる。これこそが、現代のオメガのコーアクシャル・ムーブメントが、従来のレバー脱進機を搭載した時計よりも長いサービスインターバルを実現できる理由なのである。

スイス・レバー脱進機(上)とコーアクシャル脱進機(下)

 ダニエルズはまず、懐中時計で試験し、その後、腕時計へと応用していった。その過程では、いかにもダニエルズらしい即興的で魅力的なエピソードがある。彼が実験台として選んだのは、オメガ〈スピードマスター マーク4.5〉(レマニア5100をベースとするオメガ キャリバー1045を搭載したモデル)だった。市販品を用いて、コーアクシャル脱進機の腕時計化に取り組んだのである。

 そして彼は、後から振り返れば、その結末を知る者には信じがたいような経験をする。ダニエルズは何年にもわたり、この発明をスイス時計産業へ売り込もうと試みたが、彼の提案は繰り返し退けられたのだ。メーカー各社は、18世紀以来、十分に機能してきたレバー脱進機を、あえて変える理由を見いだせなかったのである。

オメガ〈スピードマスター マーク4.5〉(オメガ キャリバー1045=レマニア5100ベースを搭載)

 パテック フィリップは、1981年または1982年という早い段階で、ダニエルズにコーアクシャル脱進機を搭載した腕時計を製作する機会を与えた。この時計は、その後10年間にわたり、ダニエルズ自身がひそかにテストを続けるために着用したものだった。

 しかし、コーアクシャル脱進機が工業化への道を歩み始めたのは、1993年のことだった。この年、ETAのエンジニアであったキリアン・アイゼネッガーが、技術部長ベアト・ギロメンを説得し、キャリバー2892A2へコーアクシャル脱進機を組み込む許可を得たのである。

ジョージ・ダニエルズがコーアクシャル脱進機を搭載したパテック フィリップ製ステンレススティールケースの〈ノーチラス〉試作腕時計(Image: Science Museum Group)

 数年にわたる開発と試験を経て、オメガは1999年、改良を施したキャリバー2892A2をベースとするキャリバー2500にコーアクシャル脱進機を搭載し、実用化へと踏み出した。このムーブメントは、限定モデルのオメガ〈デ・ヴィル コーアクシャル〉に搭載された。

 同じ1999年、ダニエルズ自身も18Kゴールド製の〈ミレニアム〉腕時計を発表した。これは、その目的のためにオメガから供給された50個のエボーシュ(未完成ムーブメント)を用いて製作されたモデルである。

 オメガはコーアクシャル脱進機の技術をライセンス契約ではなく、完全に買い取る形で取得した。そして現在、四半世紀にわたってオメガの各キャリバーの中で改良を重ねてきたコーアクシャル脱進機は、ブランドを象徴する技術となっている。今日では、オメガの高級機械式時計のほぼすべてに採用され、その搭載本数はすでに100万本を大きく超えていると考えられる。

ジョージ・ダニエルズに贈られたオメガ〈デ・ヴィル コーアクシャル〉(1999年)。裏蓋には「To our friend George Daniels」の刻印が入る。

ジョージ・ダニエルズ〈ミレニアム〉腕時計(Image: Sotheby’s)

 初期段階における問題は、実際に存在した。最初期のETAベースのコーアクシャル・キャリバーでは、鋭いエッジを持つ爪石やガンギ車の歯が早期摩耗を引き起こし、オメガはその後何年にもわたって、ひそかに機構の形状や構造を改良し続けた。しかし、ダニエルズが、啓蒙時代以来、時計界の名匠たちが取り組み続けてきた問題を根本的に解決したという事実については、これまでのところ異論は唱えられていない。

 今日、コーアクシャル脱進機は、スイスの大手時計メーカーによる洗練されたマーケティング・プロダクツとなっている。そのため忘れられがちだが、この発明は、アイリッシュ海に浮かぶ島の工房で、ほぼ独力で作業していた一人の頑固な英国職人によって構想され、開発され、試作されたものだった。

 彼は、自分が作り上げた「時計産業全体が必要としているもの」を誰も求めていないと言われ続けても、それを受け入れることを拒み、20年近くにわたって信念を貫き続けたのである。

トゥールビヨン、ルモントワール、そして未完に終わった最後の遺産

 もしコーアクシャル脱進機が、ダニエルズから時計界全体へのプレゼントだったとすれば、彼が個人的に製作したわずかな数のトゥールビヨンは、彼自身、そしてそれを依頼するだけの財力と忍耐力を備えたごく限られたコレクターたちへ向けた贈り物だった。

 ダニエルズは生涯を通じて、驚くほど高度な複雑機構を備えたトゥールビヨン懐中時計を製作した。その中には、1970年にコレクターのエドワード・ホーンビーのために製作した、レトログラード式の時針を備えた1分間トゥールビヨンも含まれる。この時計は数十年後、オークションで166万米ドルという価格で落札されることになる。

 しかし、ダニエルズの野心が、幼少期に自宅で壊れた時計を見つけた少年時代から、どれほど遠くまで到達していたのかを最も雄弁に示しているのは、彼が現役で時計製作を続けた最後の10年間に生み出した作品群である。

エドワード・ホーンビーのために製作された、ツインバレルと1分間トゥールビヨン、アーンショウ式スプリング・デテント・クロノメーター脱進機、レトログラード式時針を備えた懐中時計(Image: Phillips)

 ダニエルズの時計について語る際、技術的な側面ばかりが注目されがちだが、その美的価値にも目を向ける必要がある。彼の時計の美しさは、しばしば高度な機構の陰に隠れてしまっている。彼の作品には大きなサイズであっても、ほとんど非物質的ともいえる軽やかさがある。細身の針、繊細なエンジンターン加工を施したシルバー文字盤、そして本能的ともいえる絶妙なプロポーション感覚によって構成されたダイヤルは、見る者に静かなエレガンスを感じさせる。

 その後、多くの時計師が彼の表現を取り入れ、手仕事に影響を受けてきた。しかし、ダニエルズの時計が持つ優雅さそのものを再現できた時計師は、驚くほど少ない。

 1991年と1992年、ダニエルズはロジャー・スミスの協力なしに、完全に自身の手だけで製作した2本の腕時計を完成させた。それが〈フォー・ミニッツ・トゥールビヨン〉と〈スプリング・ケース・トゥールビヨン〉である。

 後者は、42mm径のイエローゴールド製モデルで、手作業によるギヨシェ加工を施したサブダイヤルを備えた、ブレゲの影響を感じさせる文字盤を持つ。そして最大の特徴は、独創的なケース構造にあった。スプリングとヒンジを持つ構造により、ボタンを押すだけで内側が跳ね開き、腕から時計を外すことなくケースバックとトゥールビヨンの開口部を確認できる仕組みだった。

 ダニエルズはこの仕掛けを非常に気に入っていたようで、10年以上にわたって自身の時計として身に着けていた。その後、この時計は個人コレクションへと渡り、2022年11月、ついにフィリップス・ジュネーブのオークションに初登場した。同じオークションには、ダニエルズの〈アニバーサリー〉と〈ミレニアム〉も出品されていた。3本のダニエルズ製腕時計が同一オークションに並ぶのは、史上初めてのことだった。

ジョージ・ダニエルズ〈スプリング・ケース・トゥールビヨン〉 ケースバックには、曜日・日付表示とともに、トゥールビヨンを鑑賞するための開口部が設けられている。ボタンを押すことで内側部分が開き、ケースバックを確認できる(Image: Phillips)

ジョージ・ダニエルズ〈フォー・ミニッツ・トゥールビヨン〉腕時計。スリム化されたコーアクシャル脱進機と、コンパクトなクロノグラフ機構を搭載する(Image: Phillips)

 しかし、ダニエルズのトゥールビヨン作品の中で、おそらく最も胸を打つ存在は、彼が完成させることのできなかった時計である。2011年に亡くなった時点で、ダニエルズは1998年以降、断続的に10年以上を費やし、ひとつの懐中時計ムーブメントの開発に取り組んでいた。

 それは彼のキャリアにおいて初めて、1分間トゥールビヨン、コーアクシャル脱進機、そして15秒間隔で作動するルモントワール・デガリテを組み合わせるという構想だった。ルモントワール・デガリテとは、小さなコイル状のスプリングを用いた定力機構である。ダニエルズ自身は著書『Watchmaking』の中で、これを「動力供給を平滑化する方法として、はるかに優れたもの」と評している。

 ただし彼は同時に、この機構が「製作するには複雑で高価」であり、厳密に言えば「まったく必要ではない」ものだとも認めていた。そして最後に、こう付け加えている。

「それこそが、この機構の魅力をさらに高めている」

 これは、まさにダニエルズらしい言葉である。そのプロジェクトが、機械的には過剰ともいえる存在であることを認めながらも、その過剰さこそを信じ切る姿勢。それは、機械的探求によって生涯を築き上げた男の、揺るぎない自信から生まれたものだった。

ダニエルズが未完のまま残した、1分間トゥールビヨン、コーアクシャル脱進機、15秒間隔のルモントワール・デガリテを備える懐中時計ムーブメント(Image: Science Museum)

 このムーブメントは、ダニエルズの健康状態が悪化した時点で、テンプとヒゲゼンマイを欠いた未完成の状態で残された。ダニエルズは、詳細な設計図をほとんど描かずに時計を製作することで知られていた。「すべては彼の心の中にある映像から生まれ、時計を組み立てながら発展していった」と表現されるように、彼の時計作りは頭の中の構想を、手を動かしながら具現化していくものだった。

 これに匹敵する作例は、現在知られている限り1点だけ存在する。それが1975年製の懐中時計〈エルソム II〉である。この時計も同じトゥールビヨンとルモントワールの構造を備えているが、搭載する脱進機はコーアクシャルではなく、スプリング・デテント脱進機である。

1975年に製作されたジョージ・ダニエルズの「エルソム II」トゥールビヨン・ルモントワール懐中時計。シルバー製のエンジンターンド文字盤を備え、均時差表示とパワーリザーブ表示を備える(Image: Science Museum)

1分間トゥールビヨン、15秒間ルモントワール、年次カレンダーディスクと均時差カムを備えたツインバレル、スクリューデファレンシャル式パワーリザーブ表示、反転スプリング・デテント脱進機を搭載する。

最後まで守り続けた私生活

 ダニエルズは、公の場では、自信に満ちた態度を取り続けた。実際、あるインタビューで「世界最高の現役時計師」と評されることについて尋ねられた際、彼は「よく考えた結果、それは事実だという結論に至った」と答えたことがあった。しかし、その一方で、私生活について語ることにはためらいがあり、時には率直とは言えない態度を取ることもあった。

 彼は1964年、顧客のひとりの娘であるジュリエット・マリヤットと結婚した。しかし、その結婚生活は離婚という結末を迎える。ダニエルズは自伝の中で、自らを「良い夫でも父親でもなかった」と認めている。その時期の彼は、時計製作とクラシックカーのレースに、並外れて夢中になっていたのだ。

 ジュリエットとの間には娘サラ=ジェーンがいた。2010年、マン島の自宅を訪れたジャーナリストが子供の有無を尋ねた際、ダニエルズは「いない」と答えた。しかし、後に記者はサラ=ジェーンの存在を知ることになる。そして、なぜ娘について話さなかったのかを尋ねるため電話をかけたところ、彼から返ってきた答えは、「彼女のことをあまり快く思っておらず、もはや自分の人生の一部とは考えていない」というものだった。

 これは、彼を知る多くの友人たちが語る温かな人柄と並べると、容易には受け止めにくい、複雑な一面である。しかし、この事実もまた、時計師としての偉業だけが光る聖人ではなく、ひとりの人間としてジョージ・ダニエルズを理解するためには、避けて通ることのできない一面なのである。

2011年、自宅にて撮影されたジョージ・ダニエルズ(Image: Olivia Arthur)

 晩年のダニエルズは、マン島でほぼひとり暮らしをしていた。しかしその独身者としての生活は、彼が愛した自動車、工房、そして心から彼を支え続けた少数の親しい友人たちによって、穏やかなものになっていた。その中でも特に重要な存在だったのがデイヴィッド・ニューマンである。ニューマンの妻はサラ=ジェーンのゴッドマザーでもあった。

 彼をよく知る人々が語るのは、並外れて厳格で、ときには周囲を疲弊させるほど高い基準を持った人物だったということだ。ベントレーの整備を行う際、彼はモンキーレンチではなく、必ずリングスパナを使うことを求めた。ナットの角を傷めることを極端に嫌ったためである。また、初対面の人間が親しげに「ジョージ」と呼ぶことを好まず、「ミスター・ダニエルズ」あるいは「ドクター・ダニエルズ」と呼ぶべきだと考えていた。

 工房の作業台には、彼が「墓場(グレイブヤード)」と呼ぶ小さな金属製の箱が置かれていた。そこには、自らの基準を満たさなかった手作り部品が捨てられていた。たとえそれが何カ月もの労力の結晶であったとしても、妥協することはなかった。

 そして晩年、彼の健康が衰えていくにつれ、ニューマンやロジャー・スミスを中心とする友人たちは、ときにマン島中を探し回ることになった。数百万ポンドの価値を持つ〈スペース・トラベラー〉や〈グランド・コンプリケーション〉を身に着けたまま、記憶を失って出歩いてしまったダニエルズを探すためだった。

ジョージ・ダニエルズのマン島の作業台(Image: Olivia Arthur)

 彼は、記録に残る限り、最期の瞬間近くまで時計作りを続けた。夜明けとともに作業台へ向かい、夜になってもそこを離れることを惜しんだ。ジョージ・ダニエルズは2011年10月21日、85歳でマン島にて亡くなった。葬儀の際、葬列は彼自身が所有していたヴィンテージカーによる行列となり、島の山道を進んだ。その旅には、弔問者のひとりとしてフランソワ=ポール・ジュルヌも参加した。

 ダニエルズの遺産によれば、彼が残したコレクション――ベントレー、時計、ライカ、クロック、絵画――はオークションで総額2500万ポンド以上で売れた。そして、そのすべてはジョージ・ダニエルズ教育基金へと託され、現在に至るまで時計製作、工学、医学を学ぶ学生たちへの支援に活用されている。

 ジョージ・ダニエルズを、発明家として記憶することは自然であり、決して間違いではない。彼は世界にコーアクシャル脱進機をもたらした人物であり、その技術は現在、おそらく100万本を大きく超えるオメガの時計の中で時を刻んでいる。また、彼が40年前にいったん手放したインディペンデント・ダブルホイール脱進機も、後にチャールズ・フロッドシャムと・レデラーによって腕時計へと受け継がれることになった。

 しかし、長い時間軸で見たとき、最も重要な発明は機械的なものではないのかもしれない。それは、ダニエルズ自身が示した「模範」である。工場を持たず、専門職人の集うアトリエもなく、企業の後ろ盾もない一人の職人が、25本の完全な手作り時計と、60年に及ぶ作業台での歳月を通じて、スイス最高峰の名門時計メーカーと肩を並べる時計を生み出せることを証明したのである。

フィリップス・ウォッチズの2019年春季ジュネーブオークション前夜に開催された、パネルディスカッション「インディペンデンツ・デイ:ジョージ・ダニエルズの遺産」の会場を埋め尽くす来場者。ロジャー・W・スミス、フィリップ・デュフォー、フランソワ-ポール・ジュルヌ、カリ・ウディライネン、ステファン・フォルセイ、マキシミアン・ブッサーら錚々たる面々が集った(Image: Phillips)

 それこそが、フィリップ・デュフォーが追い求めた道であった。そして、フランソワ-ポール・ジュルヌが受け継いだ精神でもある。実際、ジュルヌは2010年にダニエルズへ唯一無二の〈クロノメーター・スヴラン〉を贈り、敬意を表した。その時計は後にオークションで、ダニエルズとジュルヌの特別な時計として約150万米ドルという価格で落札された。

 それは、ロジャー・W・スミスの道でもあった。若き見習いとしてマン島のダニエルズの工房を訪れた彼は、20年以上の時を経て、ダニエルズの工房、道具、そして哲学を受け継ぐ正当な後継者となった。現在、彼はダニエルズが遺したコーアクシャル脱進機の思想を取り入れながら、自らの時計を製作している。

 もしベルナルド・レデラーに会う機会があれば、ぜひ彼にこう尋ねてみるといい。
「雨の中、ドイツからロンドンまでヒッチハイクして、ダニエルズの著書『Watchmaking』を買いに行った時の話を聞かせてください」と。その逸話こそが、偉大な時計師が後に続くすべての独立時計師たちへ与えた影響の大きさを物語っている。

 ダニエルズは、今日私たちが知る「独立時計師」というカテゴリーそのものを作った。そんな概念は、ジョージ・ダニエルズ以前には存在しなかった。彼は「自らが納得できる時計を作ることができる人物は、自分自身しかいない」と決断した最初の人だったのである。

Brand:George Daniels, Rolex

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