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独立時計師界の3巨頭—レジェピ、ジュルヌ、フラジョレ

Reference

レジェップ・レジェピ、フランソワ=ポール・ジュルヌ、デニス・フラジョレ……インディペンデント・ウォッチメイキング界の並み居る時計師たちの中でも、この三人は頭一つ抜けた存在である。

Interview

The Three Kings of Independent Watchmaking

独立時計師界の3巨頭—レジェピ、ジュルヌ、フラジョレ

レジェップ・レジェピ、フランソワ=ポール・ジュルヌ、デニス・フラジョレ……インディペンデント・ウォッチメイキング界の並み居る時計師たちの中でも、この三人は頭一つ抜けた存在である。

by Wei Koh . Mar 25,2024

高まる時計界への影響力

 ここ5年ほどで、インディペンデント・ウォッチメイキングへの関心は驚くほど高まっている。かつては、スイスの小さなアトリエで孤独な時計師が黙々と作業を続けているような、ニッチな領域にすぎなかった。

 しかしいまや独立時計師は、時計界の最前線に躍り出ている。熟練のコレクターから、新しい愛好家までを魅了し、時計技術の粋を体現する存在として注目を集めているのだ。

 多くの点で、独立時計師は、時計業界全体が歩んできた道筋とは対照的である。時計産業の歴史は、工業化と民主化という二つの大きな力によって形づくられてきた。

 しかし独立時計師の多くは、時計製作を一つの芸術として追求している。職人的であれ、コンセプチュアルであれ、技術的であれ、芸術的なものであれ、彼らは時間やコストよりも、自らの理想を形にしようとする強い意志を持っている。

 まさにその点こそが、大規模なブランドやコングロマリットとの決定的な違いだろう。商業的な期待よりも内在する目的を優先する、より専門的な道を歩むことで、彼らの業界への影響力は、生産本数とは反比例する大きなものとなっている。

 Revolutionは、こうした独立時計師たちに光を当ててきた。今日、時計界全体の注目を集める偉大な独立系の巨匠から、際立った革新を成し遂げた近年のスター、さらにはデビュー作から大きな可能性を示した新進の時計師まで、その顔ぶれは多岐にわたる。

 このように高い技術と創造性を示す時計師たちの中から、もし現代の独立時計師を象徴する人物を選ぶとすれば、私が挙げるのは次の3人である。

レジェップ・レジェピ:時計界の救世主

▲ レジェップ・レジェピ。1987年、コソボ生まれ。アクリヴィア創設者。

  私の好きな映画のシーンのひとつは、マイク・ニコルズ監督の名作『卒業』(1967年)にある。卒業パーティーの最中、主人公ベン・ブラドックが家族ぐるみの知人であるマグワイアに呼び止められる場面だ。

 マグワイアは福音を説くかのような熱意で彼を見つめ、「君に伝えたい言葉は一つだけだ。いいか、よく聞くんだ」と言う。そして少し間を置いたあと、啓示のような調子でこう告げる。「これからは“プラスチック”だ」

 私の頭の中では、これとよく似た光景が思い浮かぶ。世界のどこかの巨大都市で、ある夜、時計イベントの会場で熟練のコレクターが初心者にこう囁くのだ。「君に教えておきたい名前は一つだけだ」。すると周囲の人々も思わず耳をそばだてる。そしてそのコレクターは言う。「これからは“レジェップ・レジェピ”だ」

 「誰だって?」と思うかもしれない。もしあなたがリップ・ヴァン・ウィンクルのように長い眠りから目覚めたばかりだったり、コロナ禍が始まって以来ずっと瞑想にでも没頭していたのなら、その無知も許されるだろう。

 だがそうでないなら、時計製作を愛する人間であれば誰もが、このアルバニア系の名前を知っていなければならない。なぜならそれは、時計界の新たな救世主の名だからである。

 レジェピは、審美的にも技術的にもまさに天才だ。しかしそれ以上に、彼の時計には稀有な資質―「魂」とでも呼ぶべきもの―が宿っている。ジュネーブ旧市街グラン=リュ通りにある彼のアトリエで生み出される時計は、エネルギーと活力に溢れている。

 レジェピの時計には、視覚的な調和、独自のデザイン、そしてほとんど不気味なほど完璧な仕上げがあり、それらが相まって、まるで本当に生きているかのような印象を与えるのだ。

 数年前、独立時計師の世界で誰もが認める巨匠、フランソワ=ポール・ジュルヌに

「いま最も注目している若い時計師は誰か?」

 そう尋ねたことがある。彼は即座にこう答えた。

「レジェップ」

 そして笑いながらこう付け加えた。

「特に、もう私の真似をしなくなってからはね」

 この言葉には、フランソワ=ポールのもとで働いた後に独立し、唯一無二の時計製作を確立したレジェピに対する、誇らしい思いが込められているのだろう。

 すべての英雄の物語がそうであるように、レジェピの人生も困難から始まった。レジェピはヨーロッパ南東部のバルカン半島に位置するコソボで、アルバニア系の家系に生まれた。当時その地ではセルビア人との民族対立が激化していた。

 祖母は彼をその現実から守ってくれたという。彼はこう振り返る。

「祖母はそれをゲームのように見せようとしていました。12歳の私は、暴力の深刻さがわかっていなかったのです」

 しかし14歳のとき、コソボで続く民族紛争を恐れた祖母は、彼と兄をスイスに送り出し、そこで父親と暮らすようにさせた。

 スイスに到着してまもなく、レジェピはパテック フィリップの時計学校に入学することになる。彼はこう語る。

「父は長い間スイスに住んでいました。あるとき父は、私たちにパテック フィリップの時計を見せてくれました。その時計と名前は、ずっと私の頭の中に残っていました。スイスに来たとき、ここは時計の国だと分かり、私はパテックで働きたいと思いました。最初の頃は友達もあまりおらず、孤独でした。しかし時計製作と出会い、そこに情熱を見つけました。この道を進みたいと確信したのです。とはいえ簡単ではありませんでした。最初に時計学校の面接を受けたときは大失敗でした。ヤスリがけをさせられたのですが、めちゃくちゃにしてしまったのです。そこで家でヤスリがけの練習を続けました。そしてパテック フィリップの選抜試験を受けたときには、万全の準備ができていました」

 その学校で学んでいた頃、レジェピには人生を決定づける瞬間が訪れる。彼はこう語る。

「パテックの10デイ・トゥールビヨンを手にしたとき、私は衝撃を受けました。そして自分にこう言ったのです。いつか、自分の手でこんな美しい時計を作りたい、と」

彼の最初の時計はアクリヴィア〈AK-01 トゥールビヨン・クロノグラフ・モノプッシャー〉である。

  パテック フィリップを離れた後、レジェピはBNBコンセプトへと移る。BNBコンセプトは、パテック フィリップ出身の三人の俊英――マティアス・ブッテ、ミシェル・ナヴァス、エンリコ・バルバシーニ――によって設立されたハイコンプリケーション専門の会社である。レジェピはBNBでムーブメント開発の仕事に携わり、すぐにその魅力に取り憑かれたという。

 彼はいう。

「自分が夢見ていたグランド・コンプリケーションの開発に関われるのは、素晴らしい経験でした。私はトゥールビヨン・クロノグラフのムーブメント開発に参加しました。これは、時計の表側からクロノグラフ機構を見ることができる最初のクロノグラフでした。この経験によって、無限の可能性を垣間見ることができたのです」

 BNBを経て、レジェピはやがて、後に人生の師となる人物、フランソワ=ポール・ジュルヌのアトリエへとたどり着く。ジュルヌのもとで働くなかで、レジェピは独立時計師として歩む自らの道を思い描き始めた。

 彼はこう説明する。

「ジュルヌは他とはまったく異なることをしています。そこが私は好きなのです。彼には完全に独自のビジョンがあります。ジュルヌは自分のレガシーについて考えています。時計製作の歴史に対して深い敬意と愛情を持っていて、その物語の中に自分自身の章を刻もうとしているのです」

パワーリザーブ機構、ゼロリセット・セコンド、キーレスワークスを文字盤側に露出させた〈AK-06〉

  師からの影響を受け、まだ20代後半だったレジェップは、とても個性的なクッション型の時計を構想し、独立を決意する。彼は自身のブランドをアクリヴィアと名付けた。これはギリシャ語で“精度”を意味する言葉である。

 彼はこう語る。

「最初はもちろん、自分の名前を文字盤に入れることも考えました。でも同時に疑問もありました。誰がアルバニア系の変わった名前が入った時計を欲しがるだろう? だから、まずは謙虚であるべきだと考えました」

 その代わり、彼は美への情熱のすべてを、自身の最初のモデル〈AK-01〉に注ぎ込んだ。

 この時計に搭載されたムーブメントは、彼が以前BNBコンセプトで関わっていたトゥールビヨン・クロノグラフのムーブメントだった。しかし彼はそれを、ブリッジ構造と仕上げを全面的に再構成することで、まるでフィリップ・デュフォー級とも言えるほど完成度を高めた。

 レジェピはこう振り返る。

「ピエール・ファーヴル(高級ムーブメント製造会社MHCの中心人物)が、このムーブメントを使う機会を与えてくれました。私はこの時計に持てるすべてを注ぎ込みました。特に仕上げです。ウエイ、覚えていると思うけれど、当時はこんな装飾仕上げに興味を持つ人はほとんどいなかっんです。皆こう言ったものです。『こんなのやめろ、古臭すぎる』と」

レジェップ・レジェピ〈RRCC I〉(左)とアクリヴィア〈AK-01〉(右)は、互いに性格の異なる2つのコレクションの出発点となるモデルだ。自身の名を冠したコレクションがクラシックを追求するのに対し、アクリヴィアは前衛的なタイムピースを展開している。

  時計を完成させた後、レジェップ・レジェピは満足し、自らの作品の堂々たる姿を眺めた。

 彼はこう振り返る。

「みんながこの時計を欲しがるはずだと確信していました。ところが、2年半のあいだ誰も買ってくれなかったのです」

 こうして、最初の顧客を待ち続けるという、レジェピの人生でも最も苦しい時期のひとつが始まった。その時間が彼にどれほどの重圧を与えたかは想像に難くない。しかし、この彼は決して諦めなかった。

 彼は語る。

「待つしか方法がないとき、人はどうすればもっと中身を良くできるかを考えるしかありません。それは私にとって重要な経験でした。人生は簡単ではない。上がり下がりがあるものだと学びました。やがてコソボ出身の男性が店の扉を開き、1本買ってくれたのです」

 その後もレジェピはアクリヴィアの時計を作り続けたが、状況が大きく変わるのは2017年のことだった。手打ち仕上げのダイヤルの表側に、驚くほど美しく仕上げられた歯車機構を見せる小型のモデルを発表したことで、潮目が変わり始めたのである。

 レジェピはこう語る。

「2017年に〈AK-06〉を発表しました。世界に向けて、自分がどんな時計師なのかを示すものを作りたかったのです。シンメトリー、装飾、そして私が技術的に面白いと思う機構――テンプブレーキとゼロリセット秒針を見せたかったのです。自分のビジョンを世界に示したかったので、ダイヤルを開いた構造にしました」

 このAK-06がきっかけとなり、マイケル・テイという人物が彼を訪れることになる。

▲ シンガポールの著名な時計コレクターであり、高級時計販売グループ ザ・アワーグラスの経営者として知られるマイケル・テイ。

  マイケル・テイは、自身の会社であるザ・アワーグラスで、かつてフィリップ・デュフォーを最初に取り扱った人物でもある。彼は常に“次のフィリップ・デュフォー”を探し続けており、その可能性をレジェップ・レジェピの中に見出した。

 そして彼は、大胆な提案をする。それは、レジェピがラウンドケースのクラシックな時計を作り、自分の名前を文字盤に掲げるというものだった。

 レジェピはこう振り返る。

 「マイケル・テイこそが、私に〈RRCC I〉(〈レジェップ・レジェピ クロノメトル・コンテンポラン I〉)を作るよう説得してくれた人物です。アイデア自体はすでにありましたが、彼が『自分を信じろ』と背中を押してくれるまでは決心がつきませんでした。私はアルバニア人で、コソボ出身です。自分の名前を時計の文字盤に載せることには、ためらいがありました。父は『慎み深く、敬意を忘れてはいけない』と言っていましたから。マイケルは言いました。『もしやりたいなら、自分を信じてやればいい』と」

 こうして誕生したRRCC Iは、発表された2018年にジュネーブ時計グランプリ(GPHG)のメンズウォッチ部門を受賞した。

 レジェピは語る。

「これは、私にとって最高の瞬間でした。長い苦闘の年月を経て、私が愛するこの業界が、ついに自分の仕事を認めてくれたからです」

 RRCC Iが時計界に与える影響は、レジェピ自身が想像していたよりもさらに大きなものとなった。

プラチナケースの〈RRCC II〉は、ブラックのグラン・フー・エナメルダイヤルを備え、6時位置のスモールセコンドには、手彫りのグラッテ模様の上に半透明のグレーエナメルを重ねたサブダイヤルが配されている。

  私はレジェップ・レジェピを、インディペンデント・ウォッチメイキングの“救世主”と呼んできた。最大の賛辞だが、そこには確かな理由がある。

 精神性というものは、ラグジュアリーな物品と結び付けて語られるものではない。しかしそうした物が人の感情を揺さぶり、挑発し、鼓舞し、啓発し、さらには人を変える力を持つことは確かなのだ。

 例えば、先に触れたレジェップ・レジェピによるRRCC Iだ。この時計が呼び起こす感情は特別なものがある。

 2018年、レジェピがバーゼルワールドの時計見本市でこの時計を初めて披露した瞬間のことだ。彼がテーブルの上に時計を置いたとき、一枚のデジタル写真が撮影された。それはネットにアップされ、数秒後には世界中の人々が見たのである。

 そのひとりが、およそ6000マイル離れた場所いたロサンゼルスを拠点とするアート界のスター、ウェス・ラングである。彼の心臓は激しく打ち始めた。その時計への欲望が大波のように、彼を襲ったのだ。

LAを拠点にアート活動をするウェス・ラング(左)。時計コレクターとしても有名。

  ラングは語る。

「RRCC Iのあらゆるディテールは、驚くほど深く考え抜かれていました。凹型ベゼルの鏡面仕上げは、優雅なラグに対してやや厚みを持たせたベゼルと呼応しています。ダイヤルの意匠もまた、クラシックでありながら新鮮な独創性を感じさせるものです。レジェピがデザインしたアワートラックは、スモールセコンドのサブダイヤルと交差していますが、両者とも細部の解像度をまったく失っていません。もしこの部分でひとつでもアワーマーカーや秒目盛りが欠けていたら、この時計はクロノメーターとしての意味を失っていたでしょう。しかし彼はすべてのディテールを完璧に仕上げました。“Swiss Made”の表記さえもここしかないという配置なのです。まさに天才的な仕事でした」

 ラングはその写真を見て強く心を動かされ、すぐに購入希望を送った。価格は6万スイスフランだった。彼に割り当てられたのはレジェピが製作する最後のプラチナケースの一本だった。

 さらに幸運なことに、ラングの作品のファンでもあったレジェピが、ちょうどロサンゼルスを訪れる予定で、その時計を直接持ってくるというのだ。こうして二人の友情は始まった。

 ラングは語る。

「レジェップと、当時は恋人だったアナベル(後の妻)が、カップルで私の家を訪れました。そして彼らの滞在中、ほとんど毎日のように一緒に過ごしたのです。自分をこれほど強く動かす作品を生み出した人を、心から好きになるというのは特別なことです。そんなことができる時計も、人も、そう多くはありません」

 ▲レジェップ・レジェピ〈RRCCII〉

  RRCC Iのデザインがそれほどの高みに達しているのは、そのムーブメントによるところが大きい。マイルス・デイヴィスのアルバム『Kind of Blue』に収録された「So What」で最初に響く、あの超越的なトランペットの音のように、優れたムーブメントはひと目見た瞬間にそのすべてを語りながら、さらに見つめ続けたいと思わせる。

 なぜレジェピのキャリバーは美しいのか。その答えは幾何学的調和にある。時計の裏側を見てほしい。何が見えるだろうか。時計やムーブメントの知識があろうとなかろうと関係ない。目に飛び込んでくるのは、美しく配置された五つの円だ。

 この五つの円を重ね合わせてみれば、それが完璧な幾何学的調和であることが分かるだろう。それぞれの円の重なり方は完全に対称であり、各円が互いを正確に二分している。

 しかしさらに驚くべきなのは、この五つの歯車が時計ムーブメントの機能を本質的な要素へと還元している点である。

 マイケル・テイはこう語る。

「このムーブメントには、調和と本質を感じさせる詩的な感覚があります」

 最上部には香箱があり、ここから動力が生まれる。その下には2番車があり、左下の3番車を駆動する。そこからさらに中央下の4番車、すなわち秒輪がある。これが、小さな独立ブリッジに載せられた脱進車を動かし、右下のテンプを振動させる。

 3番車とテンプのサイズが非常に近いことは、視覚的な対称性を生み出す巧妙な仕掛けでもある。さらに、ムーブメントに配置されたルビーの位置さえも完全に対称的だ。

 そこに、しなやかな曲線を描くブリッジが加わる。鋭い内角と尖った先端は、レジェピのこの世のものとは思えない仕上げ技術を示している。

 こうして構成されたムーブメントは、ほとんど比肩するもののない、独自の個性と完成度を持っている。

 RRCC Iは、レジェピにとって一つの到達点とも言える作品だった。そして彼はその後、デッドセコンド表示を備えた、さらに見事とも言える時計〈RRCC II〉を発表する。

 RRCC IIの美しさは、世界的に有名なケースメーカー、ジャン=ピエール・ハグマンによって作られたケースによるところが大きい。

 レジェピはハグマンとどのように出会ったのだろうか。

 レジェピはこう説明する。

「実はナイトクラブを出てタクシーに乗ったときのことです。運転手が『仕事は何をしているんだ?』と聞くので、時計師だと答えました。すると彼が言ったのです。『時計ケースを作っている友人がいる。会ってみるか?』と。それがジャン=ピエール・ハグマンだったのです……。これは信じられないことでした。パテックで働いていた十代の頃から、いつかハグマンのケースで時計を作ることを夢見ていたのですから」

 こうして生まれたRRCC IIは、レジェピのケースのクオリティを、業界最高レベルへと押し上げた。

 ラングは言う。

「ハグマンのように手作業でケースを作れる人は、誰もいない。本当に誰もだ。RRCC IIのラグを見てほしい。あれは最高レベルの彫刻作品だ」

〈クロノメトル アンティマニェティーク〉

  では、独立した歯車列を用いたデッドセコンド機構についてはどうだろうか。

 レジェップ・レジェピはこう説明する。

「クロノメトリー(精度)は非常に重要です。だからデッドセコンドを採用する際にも、精度に影響を与えたくありませんでした。デッドセコンド機構を主輪列に組み込むと、エネルギーに負荷がかかってしまうのです。そこで私たちは二つの輪列を採用しました。脱進輪と同軸にスター・ホイールがあり、フリルトが毎秒それを停止させます。そして次の瞬間に解放するのですが、そのときフリルトは脱進輪にもインパルスを与えるので、むしろ脱進機を助ける役割も果たします。さらに分針用のホイールはデッドビート秒の側に配置されているため、主輪列のエネルギーを消費することはありません」

レジェップ・レジェピとルイ・ヴィトンのコラボレーションによって2023年に発表された〈LVRR-01 クロノグラフ・ア・ソヌリ〉

  2023年はレジェップ・レジェピにとって画期的な一年となった。彼はチャリティーオークション“Only Watch”のために、ユニークピース〈クロノメトル アンティマニェティーク〉を製作した。オークション自体は延期されているものの、レジェピはすでにこのモデルを市販化する計画を立てている。

 また彼はルイ・ヴィトンとのコラボレーションによって〈LVRR-01 クロノグラフ・ア・ソヌリ〉も発表した。これはトゥールビヨン・クロノグラフに、経過分を自動的に打鐘するストライク・イン・パッシング機構を備えた時計である。

 ウェス・ラングはこう語る。

「レジェップのすごいところは、まだ30代なのに、次から次へと驚くような時計を発表して、周りを圧倒していることだ。彼のキャリアはまだ始まったばかり。10年後、20年後にどんな時計を作っているのか、本当に楽しみだよ。彼はこれからますます良くなっていくだろう」

〈LVRR-01 クロノグラフ・ア・ソヌリ〉

  レジェピはこう語る。

「私は忍耐強いほうです。ひとつひとつの時計ごとに、より良いものを作ろうとしながら、着実にキャリアを築いていきたいと思っています。私はまだ若い。時間はあります。目標は本物の時計製作を通じて、後世にレガシーを残すことです」

 フランソワ=ポール・ジュルヌ:史上最高の時計師

▲ フランソワ=ポール・ジュルヌ1957年、フランス・マルセイユ生まれ。F.P.ジュルヌ創設者。

 これは避けて通れない問いの一つだ。レジェップ・レジェピは、フランソワ=ポール・ジュルヌと比べてどの位置にいるのだろうか。私にとってこれは、マイク・タイソンとモハメド・アリを比較するようなものだ。

 1989年のTVトーク番組『アーセニオ・ホール・ショー』で、ホールがタイソンを彼の英雄アリに引き合わせる場面がある。そして二人が全盛期に戦ったらどちらが勝つか、といたずらっぽく尋ねるのだ。するとタイソンはこう答えた。

「すべての頭は垂れ、すべての舌は告白する。この人(アリ)こそ史上最高だ」

 独立時計製作の世界でも同じだ。史上最高(GOAT=Greatest Of All Time)はただ一人。その名はフランソワ=ポール・ジュルヌである。

 かつてジュルヌは私にこう語った。

「音楽を作る人間は、モーツァルトは無視できない。ベートーヴェンも無視できない。音楽の歴史を無視することはできない。人は先人が築いた伝統の上で創作を続ける。しかし時折、ストラヴィンスキーのような天才が現れて、すべてを変えてしまう。だがそれは滅多に起こらない。時計製作の世界では、ストラヴィンスキーのような存在は200年現れていない。最後に現れたのはアブラアン=ルイ・ブレゲだ」

 ジュルヌはそう語ったが、私には明らかなことがある。現代の時計製作という時代を決定づけた“私たちのストラヴィンスキー”は、すでに現れている。

 天才時計師であり、並外れた知性の持ち主であり、計り知れない思いやりを持つ人物――それがフランソワ=ポール・ジュルヌだ

 人生において確信できることはそう多くないが、ひとつだけ断言できることがある。それは、ジュルヌの遺産はブランド創設から四半世紀という時間をはるかに超え、彼自身の生涯をも超えて永遠に続くということだ。彼は時計製作史における巨匠の一人として、確固たる地位を占める続けるだろう。

 ジュネーブにあるF.P.ジュルヌの本社を訪れるたび、私は会議室に掛けられた一枚の絵を見る。その絵には、彼の英雄であるアンティド・ジャンヴィエとアブラアン=ルイ・ブレゲ、そしてジュルヌ自身が、ワインをたっぷり飲みながら愉快に語り合っている様子が描かれている。

 まるで時計製作界の“聖なる三位一体”、あるいはマウント・ラシュモア(米大統領の顔が彫られた岩)のような光景だ。

 しかし、もしこの二人の偉大な人物が今日生きていたとしたら、ワインと友情に満ちた夜を過ごしたあと、夜明けの光の中でこう認めるかもしれない。フランソワ=ポールは、自分たちの偉業さえも超えたのだと。

 なぜなら、ジャンヴィエは偉大な時計師ではあったが、ジュルヌのようにビジネスでの成功は収められなかった。そしてブレゲは卓越したマーケティングの才能を持っていたが、純粋な時計師としては、ジュルヌの方が優れているとする人も多い。私自身もその一人である。

1991年に製作された、フランソワ=ポール・ジュルヌ初のルモントワール・デガリテ搭載腕時計。

  ジュルヌの輝かしい業績は、すでに伝説の域に達している。彼が最初に製作した腕時計は、トゥールビヨンにルモントワール・デガリテ(コンスタントフォース機構)を組み合わせたモデルだった。

 この時計の発表の際に初めて彼に会ったとき、彼はこう語った。

「誰もがトゥールビヨンの腕時計を作りたがる。しかし、腕時計においてトゥールビヨンには本当の意味での役割はない。腕時計にトゥールビヨンを入れるのは、レースを走る前にわざと自分の脚を折るようなものだ」

 ジュルヌが言いたかったのはこういうことだ。トゥールビヨンはもともと、懐中時計がベストのポケットの中で垂直の姿勢にあるとき、重力によって生じる誤差を補正するために考案された機構である。腕時計では事情が異なるのだ。

 トゥールビヨンは調速機にかなりの重量を加える。テンプを収めるケージ構造そのものが存在するからだ。時計のゼンマイがほどけてパワーリザーブが減少すると、このトゥールビヨン機構の重量が誤差をむしろ増やしてしまうのである。

 この問題は、ジュルヌが行ったように、トゥールビヨンのエネルギー源を香箱から切り離すことで解決することができる。そこで私は、コンスタントフォース機構がこの問題を解決するのではないかと尋ねた。

 彼は微笑んでこう答えた。

「ルモントワール・デガリテを備えるというのは、脚に最高のサポーターを装着するようなものだよ」

〈トゥールビヨン・スヴラン〉はF.P.ジュルヌの最初期の代表作で、1999年のブランド創業とともに発表された。

  やがて私は、ジュルヌが天才であるだけでなく、自分の仕事に対して驚くほど謙虚な人物であることを知った。これは理解しておくべき点だ。というのも、多くの人がジュルヌを傲慢な人物だと誤解しているからである。

 しかしそれは誤りだ。実際のジュルヌは、自身の業績について控えめであり、正当に向けられる称賛でさえ、いつもユーモアでかわしてしまう。非常に親切で寛大な人物でもある。

 ただし、愚かな人間には容赦しない。つまり、彼にインタビューをする、あるいは幸運にも会話をする機会を得たなら、彼が何を成し遂げてきたのかを理解し、ある程度の時計製作の知識を備えていなければならない。

 なぜなら、「あなたのインスピレーションは何ですか?」といった一般的な質問をするのは、ピカソに向かって「なぜ絵を描くのですか?」と尋ねるようなものだからだ。

 最初のトゥールビヨンを発表した後、ジュルヌはさらに、コンスタントフォース装置によって駆動されるデッドセコンド機構を備えたトゥールビヨン腕時計を世界で初めて作り上げた。

 その後、オリジナルの〈トゥールビヨン・スヴラン〉は生産終了とされ、ルモントワール・デガリテによって駆動される多軸トゥールビヨンへと置き換えられた。

 多軸トゥールビヨンは従来の単軸トゥールビヨンよりもさらに重量がある。そのため、この時計が成立しているのは、ルモントワール・デガリテあってこそだと言える。

F.P.ジュルヌ〈クロノメーター・レゾナンス〉1999年に発表された、共振現象を応用した世界初の腕時計。

  その後ジュルヌは、共振現象を腕時計で初めて実用化したモデルを発表した。これは彼が14年間にわたって追い求めてきたテーマである。

 彼の最初の実験は1984年までさかのぼる。当時、二つのテンプを備えた懐中時計で共振を起こそうと試みたが、成功しなかった。

 彼はこう説明する。

「当時はデテント脱進機を使っていましたが、最終的にはそれを手作業で作っていました。ところが、その脱進機のブレードを十分な精度で均一に作ることができなかったのです」

 ジュルヌが最終的に共振時計を実現したのは1998年である。フランソワ=ポール・ジュルヌの〈クロノメーター・レゾナンス〉は、現代時計史に輝く象徴的なタイムピースとなった。

 その後、このモデルは進化し、ふたつの輪列それぞれにコンスタントフォース機構を備えた新しいバージョンへと発展していく。

 〈オクタ〉は、クロノグラフを含むさまざまな複雑機構を統合できる卓越した自動巻きキャリバーである。しかしジュルヌが時計製作の世界で真に神格的な地位に達したのは、〈ソヌリ・スヴラン〉を完成させたときだった。

 この時計は、グランドソヌリとプティットソヌリを備えた世界初の腕時計であり、安全機構を組み込むことで、不注意によって壊されることがないよう設計されている。また、まったく新しい単一のフラットゴングを採用している。

 2006年、この時計を発表した際にジュルヌはこう語った。

「目標は、8歳の子どもでも使って壊すことのない時計を作ることでした。グランドソヌリの問題は、所有者が壊してしまうことが多い点にあります。たとえば時計が鳴っている最中にリューズを引き抜いてしまう。そこで、どんな操作をしても時計が壊れない安全機構を組み込みたいと考えたのです」

 さらにジュルヌは、当時世界で最も薄いミニッツリピーター腕時計も発表した。このモデルにも同じバナナ形状の単一ゴングが採用されている。

F.P.ジュルヌ〈サンティグラフ・スヴラン〉2007年に発表されたクロノグラフで、機械式時計にもかかわらず、1/100秒まで計測できる。

 〈サンティグラフ・スヴラン〉は実に見事なクロノグラフである。この時計は1/100秒針を備え、クロノグラフのブレーキが作動した瞬間に、その針を駆動するピニオンが切り離される仕組みになっている。

 この時計においてジュルヌは、毎時36万振動(360,000vph)という極端に高速でエネルギー消費の大きいテンプを用いることなく、微細な時間単位を読み取ることができるクロノグラフを実現した。

 さらに彼はクロノグラフの動力の流れを根本から再設計し、4番車ではなく香箱から直接表示機構を駆動する構造を採用することで、振幅に悪影響を及ぼす負荷を排除している。

 その後ジュルヌは、さらに驚異的な成果を生み出す。〈アストロノミック〉である。この時計は、通常の時刻(市民時)に加えて恒星時の時・分表示を備え、さらに日の出・日の入りの表示、均時差表示を備える。そしてこれらはアニュアルカレンダーによって制御され、隠されたトゥールビヨンによって駆動されるという複雑な構成となっている。

 これらはジュルヌの卓越した才能を示すほんの一例に過ぎない。彼の業績のリストは尽きることがなく、そのひとつだけでも、ジュルヌの名を時計製作史に刻むに十分なのだ。

 そしてそれらをすべて合わせて見ると、そこには時計製作の宝庫とも言える壮大な織物が形づくられている。それは、アブラアン=ルイ・ブレゲ以来の偉業と言って差し支えないものなのである。

F.P.ジュルヌ〈クロノメーター・オプティマム〉は2012年に発表された時計で、精度(クロノメトリー)を追求した集大成的モデルとなっている。

 〈クロノメーター・オプティマム〉は、私にとって史上最も好きな時計のひとつである。これはルモントワール・デガリテを備え、ブレゲのナチュラル脱進機を実装したクロノメーターだ。

 ジュルヌはこう語る。

「この時計の構想は、トゥールビヨン・スヴランやクロノメーター・レゾナンスと同じ時期に生まれました。基本的なクロノメトリーに関わる問題をすべて解決することを目指した時計なのです。レギュレーターを香箱の影響から切り離すためにコンスタントフォース機構を採用し、さらに潤滑を必要としない二重輪構造の脱進機を組み込んでいます」

F.P.ジュルヌ〈エレガント〉は、2014年に発表された、ブランド唯一のクォーツ時計。

  おそらく最も重要なのは、フランソワ=ポール・ジュルヌのあらゆる業績——その中には革新的なクォーツ時計〈エレガント〉や、極めて表現主義的な異端作とも言える〈ヴァガボンダージュ〉までも含まれるが——それらすべてが、時計製作の歴史を前進させてきたという点である。

 つまりそれは、現代の時計製作における性能、精度、信頼性、美しさ、そして情感を確実に高めてきたということであり、ジョン・ハリソン、ジャン=アントワーヌ・レピーヌ、アンティド・ジャンヴィエ、アブラアン=ルイ・ブレゲといった18世紀の偉大な巨匠たちの伝統を継ぐものでもある。

 かつてジュルヌは、時計愛好家たちだけが知る“秘中の秘”だった。しかしCOVIDパンデミック以降、一般の時計ファンが知識を深め、世界は一気にフランソワ=ポール・ジュルヌの時計に熱狂するようになった。

 需要と供給の差は急速に拡大し、その結果ジュルヌの時計の二次市場価格は、他のどのブランドよりも急騰した。

 近年、暗号資産の暴落、政治的対立、銀行危機といった混乱によって、いわゆる“ハイプウォッチ”と呼ばれた時計の価格は急落したが、ジュルヌの時計の価格だけは上昇し続けたのである。

 なぜか? それはジュルヌの時計の価値が、まさにハイプとは対極にあるからだ。ジュルヌの時計は、真のウォッチ・メイキングの魂を宿している。究極のアンチ・ハイプなのだ。

中央にテンプを配し、ワンダリング・ジャンピングアワー表示を備えた〈ヴァガボンダージュ I〉

  私がフランソワ=ポール・ジュルヌを愛してやまないのは、幸運にも彼を友人と呼べる立場にある者として言えば、彼が17歳の少年だった頃の遊び心とユーモアを今も失っていないからである。

 17歳の頃の彼は、パリの国立工芸院(コンセルヴァトワール・ナショナル・デ・ザール・エ・メティエ)と、叔父ミシェルの修復工房の間を行き来していた。時計製作と発明に対する彼の情熱は、今もまったく衰えていない。

 彼の動機は物質的な富ではない。ジュネーブ旧市街の普通のアパートに住み、毎日自分で料理を作り、上の階に住む母親のもとへ昼食を届けている。

 彼はかつてコレクターのユージン・グシュヴィント博士のためにルモントワール付きトゥールビヨンを作り、ジョージ・ダニエルズと時計製作の腕比べをした。

 また彼は、有名なコレクター、セシル・“サム”・クラットンと出会い、彼が身に着けていた二つのトゥールビヨン時計にひらめきを得て、自分自身のトゥールビヨンを作ろうと決意した。

 ジュルヌはそんな若者のままでもある。そのとき彼の手元にあったのは、自身の才能、手の技術、そしてジョージ・ダニエルズの著書一冊だけだった。

 こうした理由から、ジュルヌは生涯を通じてダニエルズを師であり精神的な父として敬い続けた。2010年、偉大な英国の時計師ジョージ・ダニエルズの誕生日を祝う夕食会がロンドンで開かれた。これはジュルヌと、そのパートナーであるウィリアム&ジョン・アスプレイによって企画されたものだった。

 その席でジュルヌはこう語った。

「あなたは現代時計製作の大きな扉を開き、偉大な時計師たちの伝統を尊重しながら、革新の精神によって真の時計製作へと戻る道を私たちに示してくれました。あなたが大きな扉を開いたのです。私はただ、その後に続いて別の扉を開いただけです」

 その夜、ジュルヌはダニエルズに〈クロノメーター・スヴラン〉を贈った。そして時計を手渡しながらこう言った。

「ジョージ、最高でいてくれてありがとう。」

 するとダニエルズは、周囲に集まった数多くの著名な時計関係者たちの前でこう答えた。

「もう私が最高ではないよ、フランソワ=ポール。君だ」

 ジュルヌは振り返ってこう語る。

「彼がそれを皆の前で言ってくれたことは、私にとって本当に大きな意味がありました」

 現在ジュルヌは何に取り組んでいるのだろうか?

 彼はこう説明する。

「デテント脱進機をベースにしながら、その問題点をすべて解決した新しい脱進機を開発しています。将来的には私の時計のすべてが、この脱進機を備えることになるでしょう」

 こうしてジュルヌは、彼の英雄ジョージ・ダニエルズの足跡をたどることになる。ダニエルズは現代において、自身が考案した脱進機の実用化に成功した唯一の時計師である。

 私がジュルヌに自分自身の業績についてどう思うかを尋ねると、彼は謙虚にこう答えた。

「時計の歴史は長い石の壁のようなものです。私がしたことは、その壁に石を一つか二つ積み上げただけです。それでも悪くはないでしょう。多くの人はそれすらしていないのですから」

 しかし真実は違う。彼が積み上げたのは二つの石ではない。一つの城壁そのものであり、その基礎はこれからの新しい世代の時計師たちを支える土台となるだろう。

 フランソワ=ポール・ジュルヌは、独立時計製作の世界を今も、そしてこれからも高め続けている。彼こそが私にとって、史上最高の時計師なのである。

デニス・フラジョレ:ザ・クリエイター

デニス・フラジョレ。1966年、フランス・ブザンソン生まれ。ドゥ・ベトゥーン共同設立者。

  誰かをルネサンス期の最も偉大な万能人、レオナルド・ダ・ヴィンチになぞらえるのは、やや大げさに思えるかもしれない。しかし、ドゥ・ベトゥーンの共同創業者であるデニス・フラジョレと時間を共にすればするほど、その比較は避けがたいものに思えてくる。

 ダ・ヴィンチと同様、フラジョレが天才であることは、技術的と美的の両方によって証明されている。

 彼の発明と創造への探求は徹底しており、鉱石から合金を精錬し、家の裏にある鍛造炉で時計ケースを自ら手作りするほどである。

 時計業界の先駆者であるダニー・ゴヴバーグはこう語る。

「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ぶべき人物はデニス・フラジョレです。彼は驚くほどの創造力を持つ人物です。彼の時計のデザインを見てください。多くの独立時計師が過去を参照するのに対し、彼の美学は完全に独自のものです。新しく、他とはまったく異なる。明らかにモダンなのです。三つのクラッチを備えたクロノグラフや世界最軽量のトゥールビヨンなど、数多くの技術革新を生み出しています。生み出す時計の内容の豊かさは、同時代のほとんどの時計師を凌ぐと思います」

 フラジョレがこれほど評価されているのは、実は彼が根っからの時計師だからである。脚光を避け、スイスの辺境サント=クロワに暮らしながら、時計製作の可能性を極限まで押し広げ続けている。

 土地の古い塔時計を改造し、信じがたいほど複雑なプラネタリウムへと変貌させた。自然に囲まれた環境の中で、その美しさからインスピレーションを汲み取っている。こうして彼は、詩的で美しい方法によって、ウォッチ・メイキングの歴史を前進させてきたのである。

 ルイ・ヴィトンのウォッチ部門ディレクターであり、ルイ・ヴィトン・ウォッチ・プライズ(独立時計師賞)の創設者でもあるジャン・アルノーはこう語る。

「私の考えでは、デニス・フラジョレは現在生きている時計師の中で、最も創造的な人物の一人であると思います」

ドゥ・ベトゥーンのパーペチュアルカレンダーを搭載した腕時計〈DB25 QP パーペチュアルカレンダー〉

  また間違いなく言えるのは、ドゥ・ベトゥーンの時計に触れて心を動かされない人はいないということだ。〈DB28〉のようにテンプを大胆に露出したモデルであれ、〈DB25 パーペチュアルカレンダー〉であれ、それを手に取った瞬間、私たちはまったく新しい時計製作の言語と向き合うことになる。それは戸惑いを覚えるほど新鮮でありながら、どこか魔法のような感覚でもある。

 ドゥ・ベトゥーンの二面性は、時計製作の歴史に深い敬意を払いつつ地球上のどの時計とも似ていないという点にある。

 もしフラジョレが音楽家だったなら、彼は完全に独創的な音楽を生み出していただろう。おそらくグランドマスター・フラッシュか、あるいはジョン・コルトレーンのような存在になっていたに違いない。

 唯一無二で、圧倒的な魅力を持つ美学と技術の創造者であり、その体系を用いて金属をきらめく時計彫刻へと変貌させている。それはまるでコンスタンティン・ブランクーシの彫刻を思わせるものだ。

 しかし何より重要なのは、ドゥ・ベトゥーンの時計が他のすべての時計と一線を画すとき、そこには必ず時計製作上の合理的な理由が存在するという点である。

ドゥ・ベトゥーン〈DB28 スティールホイール サファイヤ トゥールビヨン〉

  たとえば、ドゥ・ベトゥーンの多くの時計に見られる、あの驚くほど美しいフレーム処理によるブルーを考えてみてほしい。

 フラジョレはこう語る。

「実はこれは機能的な理由から生まれたものです。私がテンプを設計したとき(ドゥ・ベトゥーンには現在までに9種類の自社設計テンプがある)、チタン製アームを炎で処理したいと考えました。これは素材を安定させ、保護するためです。その工程でチタンは非常に強い青色に変わるのですが、私はその色をとても気に入りました。そこで色を消す代わりに、時計のさまざまな部品を少しずつ青くしていき、最終的には完全にブルーの時計に行き着いたのです。デルタ型ブリッジや〈DB28〉のケースやラグなどにグレード5チタンを広く使っていたので、この色の美しさを最大限に見せることができました」

 昨年、スポーツウェア起業家マイケル・ルービンが主催したホワイト・パーティーで、NBAスターのカイル・クーズマが、かつて私が所有していたドゥ・ベトゥーン〈DB28〉を身に着けて現れた。

 この時計は、フラジョレが全面ブルーの色調を初めて試した記念すべき一本である。白い衣装が並ぶ会場の中で、その時計の色はまるで光のビーコンのように際立っていた。その鮮烈な青はあまりにも印象的で、他のどの時計ともまったく異なる存在感を放っていた。

著者ウェイ・コーがかつて所有していた、ユニークピースのドゥ・ベトゥーン〈DB28〉

  ドゥ・ベトゥーン〈DB28〉のオーナーであれば、時計の6時位置にある非常にクールなモチーフが、腕時計としては世界初となる立体ムーンフェイズ表示であることをご存じだろう。

 この小さな球体は、パラジウムとスチールの二つの半球から手作りされている。まず二つを接合し、継ぎ目が完全に消えるまで鏡面仕上げで磨き上げる。その後、炎処理を施すことで、スチール側だけが青く発色するのだ。

 こうして完成したこの小さな工芸品はムーブメントに組み込まれ、高い精度で月の満ち欠けを表示する。

 フラジョレはこう語る。

「この立体ムーンフェイズ表示の着想は塔時計から得たものです。中世では、人々はこうした巨大な塔時計で時刻を知っていました。そこにはしばしば月齢表示がありました。農耕社会では、作物の種まきや収穫などのために必要だったからです。そこで私は考えました。これを腕時計の小さな世界の中に収めることができないものだろうか、と」

 コレクターたちは、この機構の未来的でアヴァンギャルドな表現に魅了されることが多い。しかしフラジョレのすべての仕事がそうであるように、その根底には時計製作の歴史への深い結びつきがあるのだ。

ドゥ・ベトゥーン〈DB15 パーペチュアルカレンダー〉

  初めて音速を突破したパイロット、チャック・イェーガーのたとえを借りるなら、ドゥ・ベトゥーン〈DB15〉は、その発明という点において、フラジョレにとっての音速突破に相当する出来事だった。私が初めてこの時計を目にしたとき、頭の中に響いた衝撃は、まさにソニックブームのようだった。

 トリプル・パラシュート・システムは、テンプ受けの固定部分それぞれに二つの追加ショックアブソーバーを備える構造を採用している。さらにテンプ軸に取り付けられた耐震装置と組み合わせることで、調速機構全体が腕時計が受ける衝撃から最大限に隔離されるように設計されている。

 テンプは、円形のリムとスポーク状のアームから成る輪で、左右に振動を繰り返す。脱進機と組み合わさることで時計の鼓動を制御する心臓部であり、時間を秒のさらに細かな単位へと分割し、精度を生み出す装置である。

 古くから時計業界の大半は、テンプをニヴァロックスという企業から購入してきた。この会社はスウォッチ・グループの傘下にある。フラジョレは、そのテンプを自ら製作した最初の時計師だった。

 ゼロから設計するにあたり、彼は自身の芸術的感性を存分に発揮した。最初に設計したのは、チタン製アームと小さな魚雷形のプラチナ製ウェイトを備えたテンプである。

 彼はこう説明する。

「このウェイトの形状は、空気抵抗による乱流を減らすためのものです」

 その後、彼はシリコン製のディスクにゴールドまたはプラチナのリムを組み合わせた構造へと発展させた。

 フラジョレは語る。

「目的は、できるだけ軽く、しかし同時に可能な限り大きな慣性モーメントを持つテンプを作ることでした」

 さらにそこから、スポークに穴を開けたシリコン製スポーク型テンプへと進化し、最終的にはチタンアームを持つ新たな設計へと到達したのである。

ドゥ・ベトゥーン〈DB28 Kind of Blue トゥールビヨン・メテオライト〉。チタンとシリコンで作られた超軽量の30秒トゥールビヨンと、5Hzのテンプを備える。

  時計ジャーナリスト、ティム・モッソはこう語る。

「デニスが完全に独自で、それぞれ異なる9種類ものテンプを発明しているという事実だけでも、彼が史上最も重要で創造的な時計師の一人であることを示しています」

  新しい調速機構を開発するだけでは満足せず、フラジョレはそれに取り付けられるヒゲゼンマイにも目を向けた。ヒゲゼンマイはテンプに動力を与え、その振動の均一性を制御する重要な部品である。

 フラジョレはこう語る。

「長い間、時計師たちはブレゲ・カーブ、あるいはフィリップス・カーブと呼ばれる終端曲線を使ってきました」

 これはオーバーコイルと呼ばれる構造で、ヒゲゼンマイの末端をコイルの上方へ曲げることで、ヒゲゼンマイが同心円状に伸縮するようにするためのものだ。

 フラジョレは続ける。

「しかしこの設計では、ヒゲゼンマイの高さが増すため、ある程度の体積を必要とします。私は同心円状の伸縮という点では同じ効果を持ちながら、同一平面上で機能する終端曲線を作りたいと思いました」

 当初、フラジョレはシリコン一体構造のドゥ・ベトゥーン独自の終端曲線を考案した。しかし、シリコンを温度変化に対して安定させるための酸化処理には特許が存在していたため、その設計は実用化を断念せざるを得なかった。

 そこで彼は金属製ヒゲゼンマイを新たに考案する。最終の曲げ部分を別体の金属パーツとし、より厚みを持たせた独特の多面形状としたのである。その結果、ヒゲゼンマイは二つの部品から構成されるものの、同心円状の動きを実現することに成功した。

 私にとって、デニス・フラジョレの最大の功績はトゥールビヨンにある。

 彼はこう語る。

「ブレゲがトゥールビヨンを発明したのは、懐中時計がベストのポケットの中で垂直姿勢に置かれたとき、重力がレギュレーターに与える誤差を補正するためでした。腕時計用のトゥールビヨンは数多く存在しますが、腕に装着される時計が一日中さまざまな姿勢を取り、さらに多くの衝撃を受けるという問題に対応したものはないと感じていました」

 テンプの研究を基礎に、フラジョレはトゥールビヨンの概念そのものを刷新した。

 まず彼は、チタンとシリコンで作られた、重量わずか0.18グラムという驚くほど軽量なトゥールビヨンケージを設計した。極めてミニマルな構造である。

 次に、5Hzという高振動のテンプを採用し、さらにケージの回転速度も通常の1分ではなく30秒で1回転するようにした。

 フラジョレはこう説明する。

「これら三つの要素を組み合わせることで、腕時計に最適化されたトゥールビヨンが生まれました。軽量であること、高振動であること、そして高速回転すること。この三つによって、従来のトゥールビヨンよりも衝撃からはるかに自由な機構になっているのです」

2018年に発表されたリバーシブル時計、ドゥ・ベトゥーン〈Kind of Two〉

  フラジョレの代表的な発明には、このほかにも、見事なデッドセコンド付きトゥールビヨン、〈Kind of Two〉と呼ばれる両面式腕時計シリーズ、機械式で駆動するLEDライトを備えたダイバーズウォッチ、そしてムーンフェイズ表示を備える美しい40mmのパーペチュアルカレンダーなどがある。

 しかし、今まさにこの文章を読んでいる間にも、フラジョレは次の偉業となるプロジェクトに取り組んでいるだろう。

 さらに彼は―いわば楽しみのために―2019年の火災で損傷したノートルダム大聖堂の時計の修復にも携わっている。

 美しさと詩情、そして真の時計製作をひたむきに追い求めるその姿勢、さらに私が知るどの時計師とも異なる人の心を揺さぶる力を持つことから、フラジョレは独立時計師における詩人であり、そして最も創造的な“ザ・クリエイター”なのである。

Brands:Rexhep Rexhepi, F.P.Journe, De Bethune

Brand:Akrivia, De Bethune, F.P.Journe, Rexhep Rexhepi, Tiffany
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