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フランク ミュラー伝説 第2部:トゥールビヨンを蘇らせた男

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クオーツ危機によって機械式時計の未来が揺らいでいた時代、フランク ミュラーはトゥールビヨンに新たな命を吹き込んだ。精度を追求する機構だったトゥールビヨンを、感情を揺さぶる芸術へと変え、腕時計の表舞台に引き上げたのである。若き天才がいかにして独立時計師として頭角を現し、複雑時計の歴史を塗り替えていったのかをたどる。

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The Legend of Franck Muller Part 2: Franck Muller and the Tourbillon

フランク ミュラー伝説 第2部:トゥールビヨンを蘇らせた男

クオーツ危機によって機械式時計の未来が揺らいでいた時代、フランク ミュラーはトゥールビヨンに新たな命を吹き込んだ。精度を追求する機構だったトゥールビヨンを、感情を揺さぶる芸術へと変え、腕時計の表舞台に引き上げたのである。若き天才がいかにして独立時計師として頭角を現し、複雑時計の歴史を塗り替えていったのかをたどる。

by Wei Koh . Feb 7, 2025

時計師を目指した理由

 フランク ミュラーが特別である理由は、クオーツ危機が到来した後に登場した最初の偉大な時計師だったことにある。機械式時計が電子時計に取って代わられた時代に、その才能を開花させたのである。

 1970年代を通じて、スイス時計産業は未曾有の危機に瀕していた。大量生産が可能で安価なクオーツ時計は、機械式時計では到底達成できなかった精度を実現し、業界全体を揺るがした。

 そんな時計文化の存続が危ぶまれていた時代に、フランク ミュラーはジュネーブ時計学校(L’École d’Horlogerie de Genève)の門を叩いたのである。

 フランク ミュラーは当時をこう振り返る。

「もしナタン・シュムロヴィッツがいなかったら、私は時計師になっていなかったでしょう。彼は高級時計の専門オークションハウス、アンティコルムの著名な専門家でした。私は15歳の頃、手先が器用だったことからモザイク職人になろうと考えていました。彼の目に留まったのは、私が機械いじりに夢中だったことです。私は何でも分解しては、元に戻そうとしていました。そんな私を面白がったシュムロヴィッツが、『時計製造をやってみたらどうだ』と勧めてくれたのです。私は『でも、うまくできなかったらどうしましょう?』と尋ねました。当時の時計業界は深刻な危機にあり、スイスでは8万人が職を失い、工場は次々と閉鎖され、有名メーカーですらムーブメントをキロ単位で売り払っていたのです。

 すると彼は冗談めかしてこう言いました。『失敗しても心配ないよ。君が卒業する頃には、どうせ仕事なんて残っていないだろうからね』。もちろん冗談でした。彼自身、時計を心から愛していたのです。私にその情熱が伝染するかどうかを見たかったのでしょう」

 振り返れば、シュムロヴィッツはこの頃からすでにフランク ミュラーの才能を見抜いていたのかもしれない。 彼は続ける。

「当時、多くの人が時計製造から離れていくなかで、シュムロヴィッツは、過去に築かれた膨大な遺産を継ぐ人がいなくなってしまうことを危惧していました」

 そしてフランク ミュラーは、その期待に応えるかのように驚異的な才能を発揮する。

「私は時計学校に入学し、3年間の短縮課程で卒業しました。入学したときはまだ16歳になったばかりでした。在学中には、学生時計師を対象としたスイスの主要な賞をすべて獲得しました。もっとも、それ以前の私は決して優等生ではありませんでした。むしろひどい生徒で、いつもクラスの最下位近くにいました。ところが時計師になって初めて、自分に何の才能があるのか、自分が何をするためにこの世に生まれてきたのかを見つけたのです。そして時計学校に入学したその日から、一度も満点以外の成績を取ったことはありませんでした」

時計学校で学んでいた頃のフランク ミュラー(1976年)

  しかし、さらに話を聞いていくと、完璧主義の背景に、もっと深く感情的な理由があったことを明かしている。

「子供の頃、教室ではいつも目の前の教科書に集中しようとしていました。でも私の視線は、いつも窓の外を飛ぶ鳥に向かってしまったのです。私には兄がいて、彼はいつもクラスで一番の成績でした。一方の私はいつも最下位でした。学期末になると父は私たちの成績表を見ましたが、そのたびに私は父の目に浮かぶ失望を感じていました。そんな日々のある日、私は父に時計学校へ進みたいと告げたのです。父は『本当に卒業できるのか?』と尋ねました。私は答えました。『卒業します。そして卒業するときは首席です』。実際にそうなったとき、初めて父が誇らしく思ってくれているのを感じました。しかし残念なことに、父はその後まもなく亡くなってしまったのです。ですから、私がその後どのような時計師になったのか、その目で見ることはできませんでした」

 フランク ミュラーを突き動かしていたのは情熱だった。そして時計の世界へ深く入り込むほど、彼はその文化的な意義を理解するようになっていった。

「情熱がなければ、時計学校で成功することは不可能だったでしょう。時計が私の感情に訴えかけるものでなければ、続けられなかったと思います。手と頭を使って時計を作ることは、まるで神が人類に授けた普遍的な言語を理解するような感覚でした。その言語は、あらゆる文化を超越していたのです。時間という概念は、文明社会の共通言語です。そしてその時間を表現するための巧妙な機械を作ることは、私にとって奇跡のようなものでした。私はよくこう言います。時計を分解してしまえば、そこにあるのは歯車やゼンマイといった単なる金属部品に過ぎません。それが正確に動くことは奇跡です。しかも時計は、24時間365日、絶え間なく完璧に動き続けることを求められています。それは本当に驚異的なことなのです」

 そして時計学校の卒業が近づくにつれ、フランク ミュラーのなかでひとつの夢が芽生え始めていた。しかし彼は、その思いを何年もの間、親しい友人たちにさえ打ち明けなかった。

「時計学校を卒業した直後から、自分のブランドを作りたいと考えていました。私は、自分が何を成し遂げたいのかをはっきりと思い描いていました。それは、時計製造という言語をさらに高い次元へと引き上げることでした。人間が時間をどのように表現するのか、その進化を生み出したかったのです。また、スイス時計製造の伝統を現代社会へ結び付けたいとも考えていました。もちろん、自分のブランドを立ち上げる資金などありませんでした。しかし、幸運なことに、その夢を実現するきっかけは、ロレックスという別のスイスブランドによってもたらされることになります」

フランク ミュラーにとって家族は常に大きな支えであった。とりわけ亡き父は、彼が時計師を目指すきっかけとなった存在である。

 チャンスは1本のロレックスから

  フランク ミュラーはこう語る。

「スイス最高の学生時計師に贈られる賞のひとつとして、私はロレックスの時計を受け取りました。私はこれまでも公言してきましたが、価値と実用性という観点から見れば、ロレックスはおそらく世界最高の時計です。しかし、その時計を腕に着けてみると、私にはあまりにもシンプルに感じられました。そこで私は、それをレトログラード表示の永久カレンダーに改造することを思いついたのです。しかもムーブメントを大型化することなく、既存のスペースの中で実現しようと考えました。そこでデイトジャストのカレンダー機構を取り外し、その場所にレトログラード式の永久カレンダー機構を組み込んだのです。忘れないで頂きたいのは、これが1978年のことだったという点です。当時、レトログラード式永久カレンダーを搭載した腕時計は存在していませんでした」

 フランク ミュラーは続ける。

「その時計にはロレックスの名前と、最優秀賞受賞者として私の名前が刻まれていました。そこで私は新しいダイヤルを製作した際、ブランドへの敬意を込めて『Rolex and Franck Muller』と署名しました。そして私は、その時計をロレックスに持ち込みました。自分のアイデアをブランドで製品化してほしいと思ったのです。ロレックスでは大勢の技術者たちとの会議が開かれました。彼らは数日間にわたって時計を検証しましたが、最終的に製品化は見送られました。その理由は明快でした。ロレックスの哲学は、できる限りシンプルで、できる限り信頼性の高い時計を作ることにあるというのです。彼らは『信頼性とシンプルさこそがわれわれの宗教だ』と説明しました」

 しかし、その若き時計師が製作した唯一無二の時計の噂は、すでにコレクターたちの間に広まっていた。フランク ミュラーはその機会を逃さなかった。

「私は時計製作に必要な工具を購入する資金を得るため、その時計を売却しました。当時の私にとって、それが唯一の資金調達方法だったのです。驚くべきことに、その時計は私が手放してからわずか2年後、スティール製腕時計として史上最高額の記録を打ち立てました。私はその時計をフランシス・マイヤーという人物に1万スイスフランで売りました。彼の父親は著名な懐中時計コレクターで、一家は時計界ではよく知られた存在でした。その後、この時計はイタリアの時計ディストリビューターの手に渡り、さらにモナコのコレクターへ40万スイスフランで売却されました。こうして私は、史上最も高価なスティール製腕時計の記録保持者となったのです。この記録は5年間破られませんでした。その後何年も経ってから、私はその時計の現在の所有者を突き止めました。ニューヨーク在住の日本人コレクターでした。私はかなり好条件で買い戻しを申し出ましたが、断られてしまいました」

 独立時計師として歩み始める前に、フランク ミュラーはもうひとつ学ばなければならないことがあると考えていた。それは実際の時計製作の現場と、時計およびクロックの修復技術である。

 彼が理想的な師として選んだのがスヴェン・アンデルセンだった。アンデルセンは、近代化が進む時代にあっても、伝統的な高級時計製造を重んじる職人気質の時計師だった。

 フランク ミュラーはその薫陶から大きな恩恵を受けたという。

「私が時計師として歩み始めた時期は、ちょうど伝統的な高級時計製造が終焉を迎えようとしていた時代でした。現代以前の時計は、ほぼすべてが手作業で作られていました。時計の設計は時計師の頭の中から生まれ、複雑機構の動作をシミュレーションしてくれるコンピュータープログラムなど存在しませんでした。だから時計を1本作るたびに、大きな賭けだったのです。最終的に本当に動くかどうかは、完成するまで誰にも分からなかったのですから」

トゥールビヨンは、アブラアン-ルイ・ブレゲが時計の精度を高めるために考案した機構だった。しかしフランク ミュラーは、これに新たな意味を与えた。彼はトゥールビヨンを、人々の感情を呼び起こし、表現するための舞台へと昇華させたのである。

 これが、何世紀にもわたって高級時計製造が築き上げてきた伝統的なものづくりの姿だった。

 しかし1970年代、クオーツショックが時計業界を襲う。そして1980年代、再建への道を歩み始めた時計業界は、コンピューターという強力な道具を手にすることになる。

 コンピューターは工作機械による複雑な部品製造を支援し、三次元設計やレンダリング技術に長けた技術者やマイクロエンジニアたちを時計業界へと導いた。また、試作品の製作も飛躍的に効率化した。

 要するに、コンピューターは時計業界を永遠に変えてしまったのである。

 だがその一方で、時計製造から失われたものもあった。それは説明しがたい人間的な精神であり、一本の時計に込められていた魂だった。時計師が知性と創造力、手仕事の技術、そして不屈の精神を武器に、物理法則へ挑んできた伝統は次第に失われていった。

 もはや人間が自らの意志で時間をねじ伏せようとする時代ではなく、時計製造は自動化の時代へと移行していったのである。

 フランク ミュラーは、そんな転換期において、伝統的な時計製造と現代的な手法の双方に精通した稀有な時計師だった。

 もっとも彼自身によれば、伝統的な時計製造の知識を身につける道のりは、まるで古代中国の武術の達人による過酷な修行のようなものだったという。

 フランク ミュラーはこう語る。

「すべてが手作業だった時代、時計製造の世界は秘密に満ちていました。優れた時計師は皆、それぞれ独自の秘伝を持っていたのです。どうすれば時間を意のままに操れるのか、どうすれば時計のなかに鼓動を生み出せるのか。その方法は誰にも明かされませんでした。当時、時計師は製作したムーブメントごとに報酬を受け取っていました。大手ブランドは『こういう仕様のムーブメントを10個作ってほしい』と依頼してきます。しかし、その作り方までは教えてくれません。なぜなら彼ら自身も知らなかったからです。ですから時計師は、自分が考える最高のムーブメントを、自分にとって最も効率的な方法で完成させる必要がありました。その結果、それぞれ独自の技術が発達したのです。彼らは問題を解決するための専用工具を自ら作り出しました。そして仕事が終わると、それらを引き出しや箱にしまい込み、技術の秘密もまた自分の頭の中に封印していたのです」

 師匠の技を弟子はどのように学んだのかと尋ねると、フランク ミュラーは笑いながら答えた。

「昔の名工たちの秘密を学ぶ方法はひとつだけでした。しかし、それは厳しい道でした。まず弟子となり、師匠が望むあらゆる仕事をこなさなければなりません。そして信頼を得られたとき、ようやく作業を見学することが許されるのです。ただし説明は一切ありません。作業を見ながら、自分で秘密を解き明かさなければならないのです。師匠の手の動きをひとつ残らず記憶し、その技術の背後にある論理を理解する。言葉による説明もなければ、指導もありません。何世紀にもわたり、こうして秘伝は師匠から弟子へ受け継がれてきました。そしてそれは、その秘密を受け継ぐにふさわしい能力を持つ者だけが技術を継承できる仕組みでもあったのです。ある意味では自然淘汰でした」

 しかしフランク ミュラーは驚異的な速度で技術を吸収していく。

「私の強みは、一度見たことを記憶だけで再現できることでした。スヴェン・アンデルセンが何かを実演すると、私はすぐ作業台に向かい、それを再現しました。アンデルセンは非常に厳格でした。彼は3倍ルーペで私の仕事を検査しました。そして少しでも欠点が見つかれば、その部品をその場で捨ててしまうのです。私は普段ルーペを使いません。目が良いので、これまで一度も必要だと思ったことがありません。しかしアンデルセンの検査を受ける前には、必ず10倍ルーペで自分の仕事を確認していました。私の理屈は単純でした。10倍で欠点が見つからなければ、3倍で見つかるはずがない、と」

 アンデルセンのもとで過ごした日々、フランク ミュラーは寝食を忘れて働き続けた。知識を吸収し、過去へとさかのぼり、歴代の名工たちが時間という永遠の謎にどのように挑んできたのかを学んだのである。

 そして歴史的な傑作時計の修復に携わるうちに、彼の頭の中には最初の腕時計の構想が徐々に形を成し始めていた。

 やがて自身のブランドを立ち上げたとき、フランク ミュラーは時計史の深淵から、最も象徴的な技術革新のひとつを現代へと蘇らせることになる。それがトゥールビヨンだった。

初めて腕時計にトゥールビヨンを搭載

 フランク ミュラーは語る。

「私は世界で初めてトゥールビヨンを腕時計に搭載しました。その発想は、アンティークの懐中時計を修復していた時代に生まれたのです。あれは素晴らしい時期でした。私はアンティコルムのために、そして後には著名な博物館のために、歴史上でも屈指の名時計やクロックの修復に携わっていました。時計が持ち込まれると、重要な部品が欠けていることも珍しくありません。その場合は部品を新たに製作しなければなりませんでした。しかし単に作るだけでは駄目です。失われた部品に関する歴史資料を探し出し、その時計を作った名工の考えや技術的な言語を読み解かなければならないのです。そんな作業を続けるうちに、最も熱心なコレクターたちが追い求めているのはトゥールビヨンだということに気付いたのです」

ブレゲ No.1188。フランク ミュラーは、こうしたトゥールビヨン搭載懐中時計の高い人気に着目し、この機構を腕時計へ移植した。さらにトゥールビヨンをダイヤル側に配置することで、視覚的にも楽しめるものへと変えた。

1986年に発表されたフランク ミュラー初のトゥールビヨン腕時計。ジャンピングアワーとレギュレーター表示を組み合わせている。

 フランク ミュラーは、トゥールビヨンが持つ魅力をいち早く理解していた。1801年に特許が取得されたこの機構は、ヒゲゼンマイ、テンプ、脱進機といった時計の心臓部を構成する調速機構一式を回転キャリッジの中に収め、そのキャリッジ自体を回転させるものである。

 これにより、ヒゲゼンマイの姿勢差を平均化し、とりわけ時計が垂直姿勢にある際に大きく現れる重力の影響を軽減することができた。

 しかしフランク ミュラーは、トゥールビヨンの価値を単なる精度向上という実用面だけでは捉えていなかった。

 彼はこう語る。

「トゥールビヨンが発明された当時、その目的は精度向上にありました。垂直姿勢で生じる重力の悪影響を補正する必要があったからです。しかし今日では、トゥールビヨンの存在意義はまったく異なります。本当に高い精度が欲しいのであれば、クオーツ時計を買えばいいですし、スマートフォンを見れば済む話です。もはや精度そのものが目的ではありません。現代のトゥールビヨンは、人間の手仕事がどこまで可能なのかを示す芸術作品であり、持ち主の感情に訴えかける機構なのです」

 そしてフランク ミュラーは、もしトゥールビヨンの価値が感情的な訴求力にあるのなら、その機構は最も見えやすい場所に置かれるべきだと考えた。

 彼は続ける。

「私は腕時計用トゥールビヨンを作る際、懐中時計とはひとつだけ大きく異なる決断をしました。それはトゥールビヨンをダイヤルの表側に配置することです。なぜなら、顧客が対価を支払うのはまさにその機構だからです。技術的な驚異なのですから、主役にしない理由はありません。こうすれば、私の時計を購入した人は、自分の時計にトゥールビヨンが搭載されていることをすぐに友人へ見せることができますからね」

フランク ミュラー初の腕時計用トゥールビヨンは、ジャンピングアワー機構を備えていた。〈トノウ カーベックス ジャンピングアワー トゥールビヨン〉では、通常の時針の代わりにジャンピングアワー表示窓が採用されている。

 今日のフランク ミュラーのトゥールビヨン腕時計を見れば、その魅力は一目瞭然である。見る者は、回転し続けるトゥールビヨンキャリッジと鼓動するように振動するテンプが織りなす壮麗なミクロの世界へ、磁石に引き寄せられるかのように魅了される。

 それらは単なる機械部品ではない。機械式時計が生きていることを感じさせる、生命の証なのである。

 フランク ミュラーはこう語る。

「当時、私たちは新しい時代を生きていました。人々は人生を楽しみ、その豊かさを謳歌していました。そして新たな成功の象徴を求めていたのです。トゥールビヨンは、まさにその象徴でした。こうしてトゥールビヨンは、一部の愛好家だけが知る特殊な機構から、ラグジュアリーの世界で広く知られる存在になっていったのです」

独立時計師を知らしめる

 フランク ミュラーが自身のブランド構想を公にしたのは、彼と数人の時計師たちが、ジュネーブの伝説的な時計師ギルドの復活を目指した直後のことだった。

 彼はこう振り返る。

「当時、ジュネーブで活動していた独立時計師は私とスヴェン・アンデルセン、そしてロジェ・デュブイの3人でした。私たちは力を合わせて、“キャビノティエ・ド・ジュネーブ(Cabinotiers de Genève)”という歴史的なギルドを復活させようと考えたのです。キャビノティエとは、ひとつの時計を完成させるために必要なあらゆる職人たちの集まりでした。エナメル職人、ケース職人、文字盤職人、彫金師、そして時計師たちです。当時、ミシェル・パルミジャーニとフィリップ・デュフォーもすでに有名な時計師でした。しかし彼らはそれぞれフルリエとル・サンティエに住んでいたため、ジュネーブのギルドに正式加入する資格はありませんでした。しかし、その卓越した才能への敬意を込めて、私たちは彼らを名誉会員としました」

スイス・ジュネーブ州のジャントゥにあるフランク ミュラーの本社兼マニュファクチュール“ウォッチランド”。

 しかし、自らのブランドを立ち上げるというフランク ミュラーの宣言は、その場にいた誰もが理解できないものだった。

 彼は振り返る。

「ある日、私はギルドの委員会でこう言いました。『私はもう懐中時計の仕事をやめます』。すると皆が『では何を作るつもりなんだ?』と尋ねたのです。当時のコレクターには大きく二つの層がありました。ひとつは伝統的な複雑時計を愛する人々で、その関心は主に複雑な懐中時計に向けられていました。もうひとつは、腕時計に興味を持ち始めていた新しい世代です。しかし、その頃はまだ複雑機構を搭載した腕時計の時代ではありませんでした。そこで私はこう答えました。『スイス伝統の複雑機構を腕時計の世界へ持ち込みたいのです。市場を分析した結果、最も高い価値で取引されている懐中時計はトゥールビヨンでした。だから私はトゥールビヨン腕時計を作ります』」

「当然ながら彼らは言いました。『君は気でも狂ったのか。いったい何者なんだ? ブランドでもないのに、誰が君の時計を買うというんだ』。当時の時計師はスターではありませんでした。彼らは常に裏方として働き、有名ブランドの依頼に応える存在でした。何世紀にもわたり、それが時計業界の常識だったのです。私の返答は無邪気だったかもしれません。しかし現実的でもありました。私はこう言ったのです。『パテックも会社を創業する前は、ただのひとりの人間だったはずです』。要するに、誰もがどこかから始めなければならないということです」

 もっともフランク ミュラーは、自分の時計が成功するためには大手ブランドのような莫大な広告予算に頼れないことも理解していた。だからこそ、時計そのものが圧倒的な注目を集めなければならなかったのである。

 彼は自身の構想をさらに練り上げていった。

「私は単なるトゥールビヨンでは満足できませんでした。ジャンピングアワーを搭載したかったのです。ただしデジタル表示ではなく、あくまで伝統的な時計らしさを保つため、針による表示を採用しました。当時はアナログ表示がクオーツ時計を連想させるものになりつつあったからです。私の狙いは、ダイヤル側にできる限り多くの動きを生み出すことでした。ジャンピングアワーの劇的な動きによって、時計全体の躍動感を高めたかったのです。この時計の面白いところは、トゥールビヨンキャリッジが60秒で一回転する一方で、毎正時になると針が爆発的なエネルギーとともにジャンプすることでした。この二つの異なる動きが生み出す緊張感は実に刺激的でした。また、自分の名前を世に知らしめるためには、誰も見たことのないデザインにしなければならないとも考えていました。大胆でありながら、目の肥えたコレクターが見ても正統な時計製造の系譜に連なると認めることのできる時計です。そして1984年、私はその時計を完成させ、世に送り出しました。時計はすぐに売れました。翌1985年には、レギュレーター表示を採用したトゥールビヨンを製作しました」

 その頃、フランク ミュラーとギルドの仲間たちは、大きな注目を集めるきっかけとなる名誉ある仕事を任されることになった。

 彼は振り返る。

「私たちはジュネーブ時計博物館の記念モデルとして、10本の限定時計を製作する依頼を受けました。これに神経を尖らせた大手ブランドもありました。正確に言えば、彼らは不安を感じていたのだと思います。なぜなら、自分たちの名作時計の背後に私たちのような独立時計師が存在していたことを世間に知られたくなかったからです。もちろん、私たちにブランドを困らせる意図はありませんでした。ただ、自分たちの存在を知ってもらいたかっただけなのです」

 そこで1985年、彼らは独立時計師の活動に光を当てるため、新たな組織を設立する。それがAHCI(Académie Horlogère des Créateurs Indépendants)である。

 今日では世界を代表する独立時計師たちが所属するこの有名団体も、当時は独立時計製造の価値を伝えるための小さな活動だった。

複雑時計の頂への挑戦

 そして独立時計師への注目が高まり始めるなか、フランク ミュラーは次なる挑戦へと向かう。

「勢いが生まれ始めた今こそ、特別な時計を作らなければならないと思いました。そこで私は、世界初のトゥールビヨン・ミニッツリピーター腕時計を作ることを決意したのです。当時、この時計のトゥールビヨンはまだムーブメントの裏側に配置されていました。しかし1989年になると、私はさらに複雑な時計を作りたいと考えるようになりました。そこでトゥールビヨンとミニッツリピーターに永久カレンダーを組み合わせ、さらにトゥールビヨンをダイヤル側へ移したのです。これは非常に難しい仕事でした。トゥールビヨンを文字盤側で回転させるためには、ミニッツリピーター機構も永久カレンダー機構も大幅に配置変更しなければならなかったからです。完成までに何年もの歳月を費やしました。そして最後にテンプが動き始めるまで、本当に機能するかどうかは誰にも分かりませんでした。なにしろ、そんな時計を作った人はそれまで一人もいなかったのですから」

 こうして発表される時計ごとに、フランク ミュラーの名声は高まっていった。やがて世界有数のコレクターたちが、ジュネーブの小さなアトリエを訪ねてくるようになる。

 しかし成功によって彼の創作意欲が鈍ることはなかった。

「トゥールビヨン・ミニッツリピーターを完成させた後、私はさらに困難な目標へ挑みました。それは世界初のトゥールビヨン・スプリットセコンド・クロノグラフを作ることです。

 多くの人は理解していませんが、クロノグラフはもともと時計製造のなかでも最も難しい機構のひとつです。そして中間タイムを計測できるスプリットセコンド・クロノグラフは、そのさらに上をいく複雑機構です。私はスプリットセコンド機構にアイソレーター機構を採用しませんでした。その代わり、非常に大きな慣性モーメントを持つ大型の金製テンプを使用したのです。その結果、スプリットセコンド機能を最大3分間作動させ続けても、テンプの振り角にはほとんど影響が現れませんでした」

フランク ミュラー〈ロングアイランド トゥールビヨン ミニッツリピーター〉。複数の複雑機構をひとつの時計に融合させる、フランク ミュラーの卓越した才能を示す代表作である。

 フランク ミュラーの複雑機構への飽くなき探求心はとどまるところを知らなかった。そして彼は次々と前人未到の時計を生み出し、時計愛好家たちを驚かせ続けた。

 彼はこう振り返る。

「その後、私はスプリットセコンド・クロノグラフとトゥールビヨン、さらに永久カレンダーを組み合わせた時計を製作しました。こうした時計で問題になるのは、例えば大晦日の深夜0時です。永久カレンダーの各表示が一斉に切り替わるその瞬間に、スプリットセコンド・クロノグラフを作動させても、テンプの振り角が大きく低下することなく動き続けなければなりません。これこそが、この時計における最大の課題でした。なぜなら複雑機構とは、単に積み重ねればよいものではないからです。それぞれの機構が互いにどのような影響を及ぼし合うのかを深く理解しなければなりません。35万スイスフランもする時計です。当然ながら完璧に機能しなければならないのです。しかも当時の私は、まだほぼひとりで仕事をしていました。時計を構成する部品も、自ら手作業で製作していたのです」

 複雑機構を組み合わせること自体は難しい。しかし本当に難しいのは、それらが同時に作動したときでも時計としての性能を維持することである。

 フランク ミュラーはその課題に挑み続け、トゥールビヨン、ミニッツリピーター、永久カレンダー、スプリットセコンド・クロノグラフといった最高峰の複雑機構をひとつの腕時計に統合することで、独立時計師としての名声を不動のものとしていった。

より多くの人々へ自分の時計を

 1984年以降、1990年代を通じ、そして新世紀に入ってからも、フランク ミュラーは時計界を牽引し続けた。

 彼は次々と前例のない複雑機構を発表し、時計愛好家たちを驚かせた。1992年には、グランドソヌリやプティットソヌリ、レトログラード式永久カレンダー、さらには温度計まで搭載した当時世界で最も複雑な腕時計を発表している。

 しかし、こうした時計にはひとつの制約があった。それは、すべてのムーブメントをフランク ミュラー自身が手掛けていたことである。彼の才能は際限なく創造を生み出したが、その一方で、一人の時計師が製作できる本数には限界があった。

 より多くの人々へ自身の時計を届けるためには、新たな進化が必要だった。フランク ミュラーは、自らのビジョンをさらに大きなものへと発展させなければならないことを理解していたのである。

〈トノウ カーベックス〉ケース。トゥールビヨン機構を横方向から眺めたところ。

 フランク ミュラーはこう語る。

「私のもとには多くの時計愛好家が訪れるようになりました。しかし当時の私は、昔ながらのやり方で、1本1本を自分の手で作っていたため、その多くの人たちの要望に応えることができませんでした。その頃、複雑時計への関心が再び高まっていること、そして手の届く複雑機構には市場の空白があることに気づいたのです。そこで私は、当時最も信頼性の高いムーブメントのひとつであり、しかも入手可能な数少ないクロノグラフでもあったバルジュー 7750をベースに、工業生産可能な初のラトラパンテ、スプリットセコンド・クロノグラフを特許化しました。カレンダー機構を取り除き、その場所にスプリットセコンド機構を組み込んだのです。しかも、それは非常に限られたスペースに収めなければなりませんでした。これが、私が工業的規模で製作した最初のシリーズとなりました。のちに、この特許は17のブランドが使用することになります。私はこの機構をそれらのブランドにライセンス供与しましたし、現在でもそれを使っているブランドがあります。多くの人が、ムーブメントを作ってほしいと私に頼んでくれました。しかし私は大半にこう答えていました。『いいえ、私は自分の仕事に集中しなければならないのです』と。ただ、考えれば考えるほど、自分なりの高級時計製造に対する考え方を、より広い層に伝えたいと思うようになったのです」

 この時点で、フランク ミュラーは自らの夢を実現させる人物と出会うことになる。彼はこう説明する。

「ちょうどその頃、私のパートナーとなるヴァルタン シルマケスが現れ、私の時計作りに対するヴィジョンを、世界的な存在感を持つ国際ブランドへと発展させるというアイデアを持ち込んできました。当時、彼はケースメーカーで、ダニエル・ロートの楕円形ケースなど、業界でも最も複雑なケースを製作していました。最初は人を寄こし、最後には彼自身がやって来ました。8月のことでした。彼が私の庭に来たのを覚えています。彼はこう言いました。『私は世界で最も複雑なケースを作っています。私たちが組めば、ブランドを作ることができます』と」

「私は考えました。当時、私はムーブメントを作っていましたが、ケースは友人から購入していました。生産数があまりに少なく、年間3本か4本程度だったからです。その友人は非常に優れたサプライヤーで、当時はパテック フィリップやブランパンのケースも製作していました。しかし私の生産数はあまりに少なかったため、優先順位は低かったのです。そこで私はこう答えました。『あなたはケース事業を続け、私はグランド・コンプリケーションの仕事を続ける。その一方で、シリーズで生産するための提携をすればいい。優れたムーブメントを備え、スイス高級時計製造の伝統を持ち、同時に新鮮で現代的なものです』。つまり私は、スイス時計産業が復活するためには、私たちの伝統を新しい世代にとって魅力的なものにしなければならない、と考えていたのです」

フランク ミュラー〈ラウンドトゥールビヨン〉

ダイヤモンドを贅沢にセッティングしたフランク ミュラーの〈トノウ カーベックス マスターバンカー トゥールビヨン〉と〈トノウ カーベックス レディ トゥールビヨン サクラ〉

 フランク ミュラーはブランドに対する自身のヴィジョンについて、こう語る。

「私は常に、すべての時計に対するクリエイティブの主導権を完全に握ることを心掛けてきました。フランク ミュラーの時計は、常に創作の喜びから生まれるものであり、商業的な必要性から生まれることはありません。私たちが手掛けてきたすべての時計は、時計製造の世界に新しく革新的なものをもたらし、その進化の物語に貢献しようとしてきました。1992年には、私たちはSIHHに出展していました。そして、とりわけイタリアで大きな成功を収めたのです」

「というのも、当時の時計コレクション文化の中心地はイタリアにありました。誰もがこの市場を世界で最も洗練された市場だと考えていました。美しい時計専門誌が最初に生まれたのもイタリアであり、世界有数の重要なコレクターたちが集う場所でもありました。ラテン民族ならではの情熱的な気質と、科学や文化に深く根ざした伝統がその理由だったのかもしれません。いずれにせよ、真に本格的な高級時計製造と現代的な精神を融合させるという私のヴィジョンを、最初に受け入れてくれたのが彼らだったのです」

「私が製作したユニークピースの多くは、著名なイタリア人実業家たちの手に渡りました。彼らは取締役会に出席した際、自分と同じ時計を他人が着けているのを見たくなかったのです。そこからブランドは大きく飛躍していきました。初期の愛用者にはジャンニ・ヴェルサーチがいて、その後にはエルトン・ジョンも加わり、ブランドの知名度はアメリカで大きく高まりました。また、ジャッキー・チェンは、フランク ミュラーを世界的ブランドへと押し上げる手助けをしてくれました。しかし、私には常にひとつの目標がありました。それは、私たちの時計が人々の心に響く存在であることです。オーナーに喜びをもたらしながら、同時にスイス時計産業における最高水準の品質を体現すること。それこそが私の目指してきたものなのです」

 品質に対するフランク ミュラーの妥協なきこだわりを支えるのが、ウォッチランドの製造体制である。同社はケースとダイヤルを100%自社製造する唯一のブランドだ。

 ムーブメントもすべてジュネーブ州ジャントゥにある自社施設で製造・組み立てが行われ、厳格な品質管理と社内テストを経て完成する。そうして初めて、それらは真のフランク ミュラーの時計として認められるのである。

 フランク ミュラーはこう語る。

「私には常にひとつの目標がありました。それは、私たちの時計が人々の心に響く存在であることです。オーナーに喜びをもたらしながら、同時にスイス時計産業における最高水準の品質を体現すること。それこそが私の目指してきたものなのです」

Brands:Franck Muller

Brand:Franck Muller
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