A.ランゲ&ゾーネの継承者であったウォルター・ランゲの生涯、残された遺産、そして功績を振り返る。さらに、1994年10月、二人の偉大なドイツ人によって
Walter Lange 100 Years: The Lange 1
〈ランゲ1〉なぜ史上最も独創的で、モダンな時計なのか?
Revolutionファウンダーのウェイ・コーが、A.ランゲ&ゾーネの継承者であったウォルター・ランゲの生涯、残された遺産、そして功績を振り返る。さらに、1994年10月、二人の偉大なドイツ人によって生み出された〈ランゲ1〉が、いかにしてアイコンとなったのかを紐解いていく。
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by Wei Koh . Jul 29, 2024 |
ドイツの再統一を夢見た人物
それは一つの建物だった。だが同時に、それは彼の信念の記念碑でもあった。 祖国がいつの日か再び国家として統一される―その未来を疑うことなく信じ続けた、揺るぎない信念の象徴である。
彼が亡くなったのは、1989年にベルリンの壁が崩壊するわずか4年前のことだった。実に10,316日間にわたり国家を分断していたコンクリートの壁は、人々の手によって打ち壊された。
ドイツ統一を求め続けた新聞出版人、アクセル・シュプリンガーの闘いは、われわれの胸を打つ。 彼は決して時流に乗っていたわけではなかった。むしろ、しばしば時代錯誤の理想主義者、あるいは無謀な使命に取り憑かれたドン・キホーテのように扱われることさえあった。
それでもなお、彼は信念を曲げず、理想のために人生のすべてを捧げた。その事実こそが、私が彼を敬服してやまない理由である。
私が初めてベルリンを訪れたとき、ミシュラン星付きレストランのシェフである友人ティム・ラウエが、シュプリンガーの20階建ての本社ビルへ案内してくれた。そこで彼はこう語った。
ヨーロッパ最大級の新聞・出版帝国を築いたシュプリンガーなら、本社ビルは世界のどこにでも建てることができたはずだ。だが彼が選んだ場所は、ベルリンのクロイツベルク――東西ドイツを分断していたベルリンの壁のすぐ傍だった。
なぜそこだったのか?
ラウエは言った。
「彼は、この建物を東ドイツに向けた象徴にしたかったのです。いつの日か、私たちは再び一つの国として統一されると信じている――その意思を示す象徴として」
その本社ビルは、自由の象徴であり、ソ連の支配下にあった東ベルリン、そして東ドイツ全体に向けた希望の光でもあった。 シュプリンガーがクロイツベルクを選んだ理由は明確だった。彼は確信していたのだ。ベルリンの壁は、いつか必ず崩れ落ちると。 その日が来たとき、彼の本社ビルは、再び一つとなった都市と国家のまさに中心となる。そう信じていたのだ。

▲ 新聞・出版人、アクセル・シュプリンガー。1966年、自社のライブラリーにて。ここは現在、ジャーナリストクラブとして使われている(Image:axelspringer.com)

▲ 写真左が東ベルリン、右が西ベルリン。1959〜1960年、アクセル・シュプリンガーはドイツ分断への象徴的な抗議として、本社をハンブルクから西ベルリンへ移転した。写真右側に見える建物が彼のビルで、ベルリンの壁に隣接して建てられている。壁上にはソ連側の監視塔が確認できる。逃亡するには、身の隠す場所のない“ノーマンズランド”を通らなければならず、警備兵によって射殺されてしまうのだ(Image:malaysianmeanders.blogspot.com)
シュプリンガーの物語を思い起こすと、東ドイツの占領によって人生を大きく狂わされた、もう一人の人物のことが頭に浮かぶ。その名はウォルター・ランゲである。
彼の人生もまた驚くべきものだ。若き日の彼を襲ったのは、まるで旧約聖書のヨブ記を思わせるような、理不尽ともいえる悲劇だった。
ウォルター・ランゲの人生
物語はこう始まる。
ウォルター・ランゲ、16歳のとき。若く理想に満ち、未来のすべてがまだ開かれていた。彼はオーストリアのカールシュタインへ赴き、時計師としての修業を始めた。胸中には、自らの名をドイツ高級時計製造の歴史に刻みたいという夢を抱いていた。 彼の血筋は、1845年、後にA.ランゲ&ゾーネとなる工房を創設した祖父フェルディナント・アドルフ・ランゲへと連なっていたのだ。
1942年、18歳となったランゲは時計学校を卒業し、ドイツへ帰国する。だが祖国は、すでに戦争の渦中にあった。 彼は軍に徴兵され、ロシア戦線へ送られる。そして1945年、戦闘の最中に脚を撃たれ、動くこともできないまま戦場で一晩を過ごすことになった。
耐え難い痛みにもがきながら、彼はその場で命を落とすのではないかと思ったという。やがて発見された彼は、バルト海経由で故郷へ送還され、家族の看護のもとでゆっくりと回復していった。
さらに朗報も届いた。戦争が、ついに終わろうとしているという知らせだった。
希望に満ちたランゲは、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結するそのまさに最後の日、時計師としての人生を始めるため、家族の工場があるグラスヒュッテへ向かった。停戦が発表されるわずか数時間前のことである。
だが、そこで彼を待っていたのは、信じがたい光景だった。ヨーロッパで行われた最後の爆撃のひとつによって、家族の時計工場が破壊される瞬間を目にしたのである。
その後の3年間、ウォルター・ランゲは父ルドルフ・ランゲ、そして叔父のオットーとゲルハルトとともに、A.ランゲ&ゾーネの再建に全力を注いだ。 彼らはまさに一つひとつの煉瓦を積み上げるようにして工場をよみがえらせていった。瓦礫と灰に覆われた廃墟の中から、愛するA.ランゲ&ゾーネに再び息吹を取り戻そうとしたのである。
長い年月を経て、家族はようやく未来への希望を取り戻し始めていた。そして彼らは、新しい時代へ向けた計画にも着手した。急速に拡大していた腕時計市場に向けて、まったく新しいムーブメント――キャリバー28の開発を開始したのだ。
それは、再生したA.ランゲ&ゾーネの未来を象徴するプロジェクトとなるはずだった。

▲ 左:1926年、ルドルフ・ランゲと子どもたち。写真右端に写る2歳の少年が、後のウォルター・ランゲである。 右:1946年、時計師の作業台でテンプ真を旋削する22歳のウォルター・ランゲ。
しかし1948年、事態は再び彼の人生を大きく揺るがす。東ドイツ当局は、A.ランゲ&ゾーネを国有化し、VEBグラスヒュッター・ウーレンベトリーベ(GUB)に統合するとランゲ家に通告したのである。
会社の資産は即座にすべて接収された。そしてその新たな役割は、ソビエト圏諸国向けに安価な機械式時計を生産することだった。
ランゲ家には、何ひとつ残されなかった。さらに、父ルドルフと叔父たちは工場への立ち入りを即座に禁止され、もし戻れば逮捕すると通告された。
一方、ウォルター・ランゲには新体制の下で働く機会が与えられたが、彼は信念からそれを拒否した。 その結果、彼に告げられたのは、ウラン鉱山での強制労働という処分だった。 それが事実上の死刑宣告に等しいことを理解したウォルターは、1948年11月、故郷を捨てて東ドイツからの脱出を決意する。そして西ドイツのフォルツハイムへと逃れ、そこで新しい生活を始めた。
翌年には父ルドルフも脱出し、彼のもとへ身を寄せる。しかし、家業のすべてを奪われたショックはあまりにも大きく、ルドルフはそのわずか1年後に亡くなってしまう。
最期の瞬間まで、父はこう嘆いていたという。
「A.ランゲ&ゾーネは、永遠に失われてしまったのだ……」と。
その後、ウォルター・ランゲは42年間、フォルツハイムでひっそりとした生活を送ることになる。時計の販売代理業に携わりながら生計を立てた。
彼はついに時計師になることはなかった。そして、グラスヒュッテへ戻ることもなかったのである。
しかしその後、まるで奇跡のような出来事が起こる。
ウォルター・ランゲはすでに66歳となり、年金生活者として静かな、しかし品位ある引退生活を送っていた。 1987年、彼はテレビである光景を目にする。アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンがベルリンの壁の前に立ち、ソ連共産党書記長に向かってこう呼びかけたのだ。
「ミスター・ゴルバチョフ、この壁を取り壊しなさい」
そしてさらに驚くべきことに、1989年、彼はテレビで歴史的瞬間を目撃した。ベルリンの壁が崩壊したのである。 ウォルターは、自分の目を疑った。ドイツが再び統一された。祖国は、ついに一つの国家として再統一されたのだ。

▲ 左:1989年11月10日、東ドイツ国境の開放を祝う市民たちがブランデンブルク門でベルリンの壁に登る様子(Image:voanews.com 右:1989年11月11日、東ドイツの警備兵が見守る中、ベルリンの壁の一部を打ち壊す西ベルリン市民。(Image:Keith Pannell/Mail on Sunday,via Reuters)
ギュンター・ブリュームラインの夢
そしてそのとき、まったく予期しない出来事が起こる。人生の黄昏に差しかかったある日、ウォルター・ランゲのもとに、彼の人生で最も重要な一本の電話がかかってきたのである。
電話の主は、ギュンター・ブリュームラインという人物だった。
ウォルター・ランゲに連絡を取ったその時点で、ブリュームラインはすでに時計界の大物であった。業界史において最も偉大なリーダーの一人と称された人物である。
彼は勤務先であるVDOシンドリングAGから、経営難に陥っていた2つの時計ブランドIWCとジャガー・ルクルトの再建を託されていた。 ブリュームラインは卓越した手腕で、それぞれのブランドが持つ本質的なアイデンティティを見極め、それを核としてブランドの魅力を再構築した。
IWCは、もともと信頼性と精度に優れた実用時計として知られるブランドだった。ブリュームラインはそのキャラクターをさらに推し進め、IWCを機能的革新を象徴するブランドへと変貌させる。
スプリットセコンド・クロノグラフ、パーペチュアルカレンダー、ミニッツリピーター……。当時存在したあらゆる複雑機構において、IWCをより優れ、より信頼性が高く、そしてよりリーズナブルな価格で提供できるブランドとしたのである
一方、ジャガー・ルクルトは当時、他ブランド向けムーブメントの供給に追われ、自社モデルは長らく影の薄い存在となっていた。 ブリュームラインはそこに目を向け、同社が持つ独創的な回転式ケースのレベルソに焦点を当てる。そしてケースサイズの拡大や複雑機構の搭載によって、このモデルを再びブランドを象徴するアイコンの地位へと押し上げたのである。

▲ 1991年、クォーツ危機後にIWCとジャガー・ルクルトを再建し、後にA.ランゲ&ゾーネの復活を主導したギュンター・ブリュームライン(左)とウォルター・ランゲ(右)
しかし、スイスで働くドイツ人であったギュンター・ブリュームラインの胸には、ある大きな夢があった。それは彼の上司であり、VDOシンドリングの経営者でもあった同じくドイツ人のアルベルト・ケックと共有していた夢でもある。
彼が思い描いていたのは、ドイツ時計製造のルネサンスだった。共産主義によって一度は消え去ったその伝統を、かつて世界が見たことのないレベルで復活させること――それが彼の構想だった。
ブリュームラインは、ザクセン時計製造の伝統と美学を備えながら、ムーブメントは完全自社製とし、仕上げの完成度は世界最高峰の時計ブランドであるパテック フィリップにさえ匹敵する時計を思い描いていた。 デザインは洗練され、エレガントでありながら、同時に革新的で、これまでにない新しい時計であること。それが彼の理想だった。
そして彼は、その夢を託すにふさわしい伝説的な名に目を留める。それがA.ランゲ&ゾーネだった。揺るぎない名声を誇りながら、歴史の中に埋もれてしまったブランドである。
1990年、ウォルター・ランゲとギュンター・ブリュームラインは、A.ランゲ&ゾーネの商標を正式に登録するに至った。
ウォルター・ランゲはこう語っている。
「1990年12月7日は、私の人生でもっとも素晴らしい日でした。グラスヒュッテの小学校時代の同級生の住所を借りて、ブランドを登録したのです」
しかし、A.ランゲ&ゾーネの再興は決して平坦な道ではなかった。最大の課題は、かつて接収されたランゲ家の敷地と工場を取り戻すための交渉だった。
国有資産の民営化を担うトロイハント信託庁との交渉は、一定の進捗を見せていた。だが、信じがたい出来事が起こる。同庁の長官であったデトレフ・ローヴェッダーが、自宅で銃撃されて殺害されたのである。この事件によって、ランゲの工場を買い戻す計画はほぼ10年もの間遅延することになった。
それでも、ウォルター・ランゲとギュンター・ブリュームラインには、すでにブランドネームがあり、そして夢があった。だが、まだ足りないものがあった。それは、世界がまだ見たことのない時計だったのである。
A.ランゲ&ゾーネの再発明
ある意味で、ランゲ1は、ウォルター・ランゲやギュンター・ブリュームラインがその構想を練り始める以前から、すでにアイコンとなる運命にあったのかもしれない。
それは、ウォルター・ランゲの心の奥底に、半世紀ものあいだ静かに眠り続けていた時計製造への情熱、そして一族の伝統への愛の結晶だった。
この時計を生み出すために、ブリュームラインは現代時計製造を代表する才能を集めたチームを組織した。当時の時計界における最高の頭脳が結集したのである。
このプロジェクトに最初に加わったのは、シャフハウゼンのレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される時計師、クルト・クラウスだった。 そこにラインハルト・マイスが加わり、そしてもちろんギュンター・ブリュームラインとウォルター・ランゲが名を連ねた。
私の友人でありジャーナリストのギスベルト・ブルーナーは、1994年のランゲ1発表直後にブリュームラインへインタビューを行い、こう問いかけた。
「最初のA.ランゲ&ゾーネ・コレクションは、遠い過去の偉大な伝統へのオマージュなのでしょうか?」
ブリュームラインの答えは即座に、そして明快だった。
「まったく違います。1994年のA.ランゲ&ゾーネの腕時計、そしてこれから登場するすべてのモデルは、過去の時計製造の伝説を模倣するものでは決してありません」
彼は、ランゲ1がまったく新しい、完全に現代的なデザインであることを強調していた。確かにそこには、ランゲの歴史やドイツ時計製造の伝統に対する敬意が込められている。しかし、それは決して過去をなぞるものではない。
ランゲ1を“過去を振り返るノスタルジックな時計”と理解するのは、この時計の本質を見誤っている。ランゲ1は時計史上もっとも大胆で、もっとも独創的な現代時計のひとつなのだ。
その基本デザインは、一見すると大胆で非対称なレイアウトを採用している。しかしその裏側には、比率、調和、そして精密さへの徹底したこだわりが潜んでいる。これほどのバランスは、創造力の絶頂にあった二人のドイツ人、ブリュームラインとランゲによってのみ生み出し得たものだろう。
この時計は完全に唯一無二であり、時計デザインの常識を塗り替える存在だったのである。
大胆なる独創 ― ランゲ1のデザイン
まずはランゲ1のダイヤルデザインから見ていこう。ランゲ1のダイヤルは、初めて目にした瞬間、大胆にオフセンターへ配置されたレイアウトによって見る者に衝撃を与える。しかし同時に、不思議なほど調和の取れた美しさによって、手に取る者を魅了してしまう。
なぜなのか?
それは、この時計が精密なデザインと完璧な調和を体現した、時計史上屈指の名作だからである。
ダイヤルは次の要素によって構成されている。1時位置には、大きく存在感のあるアウトサイズデイト(ビッグデイト)、ダイヤル左側には、時分を表示する大きなオフセンターのサブダイヤル、右下にはスモールセコンド、そして右側の残されたスペースには、パワーリザーブ表示が配されている。
このレイアウトは、時間表示と秒表示を分離するレギュレーター式時計から着想を得ているのかもしれない。しかし、ランゲ1のデザインは単なる引用ではない。それは、恐れを知らない完全なる独創性の表現なのである。

▲ ランゲ1のダイヤルを支える基本的なデザイン原則。
ランゲ1のダイヤルが、なぜこれほどまでに心地よい幾何学的調和を感じさせるのかを理解するには、一見すると自由で不規則に見える配置の背後に潜む対称性を見る必要がある。
時分表示のキャノンピニオン、パワーリザーブ表示の軸、スモールセコンドの軸、そしてアウトサイズデイトの二つの数字を隔てるフレームの中心点。この四つの基準点は、互いに結ばれることで二等辺三角形を形成している。
さらに、日付窓フレームの中央はローマ数字の「XII」インデックスの頂点と正確に一直線上にあり、ローマ数字の「VI」の下端はスモールセコンドの軸とぴたりと揃う。時分表示のキャノンピニオンは、パワーリザーブ針の軸とも正確に整列している。そしてこれら二つの軸から、それぞれ最も近いダイヤル外周までの距離は完全に等しい。
このように、視線を向ける先々に幾何学的な調和が潜んでいることに気づいたとき、見る者の心は不思議な静寂に包まれる。ダイヤルの秩序がそのまま自分自身の内面へと染み渡り、世界のすべてが正しく整っているように感じられるのである。

▲ 一見無秩序に見えるランゲ1のダイヤルには理性と調和が潜んでいる。

▲ ランゲ1のダイヤルには二等辺三角形と黄金比で構成されている。
禅の仏教徒たちはよくこう言う。私たちは、過去を悔やんだり未来を案じたりすることにあまりにも多くの時間を費やし、“今この瞬間”を生きることを忘れているのだと。
その結果、私たちの感覚は過剰な刺激にさらされ、絶え間ない不安に襲われる。そして脳は、まるで電撃戦のような激しい思考の奔流に、休む間もなく襲われ続けることになる。 禅の教えによれば、そこから解放される唯一の方法は、深い瞑想に身を委ねることだという。
しかし私は、もう一つの方法を見つけた。 それは、熱々の湯船にゆっくりと身を沈め、氷のように冷えたマティーニを二杯続けて飲み、ジョニー・ハートマンとジョン・コルトレーンの音楽を流すことだ。
そして、これがいちばん大切なことだが、手元のランゲ1を手に取り、ダイヤルが生み出す調和の中に身を委ねる。すると、これまであなたの心を囚えていた不安が、静かにほどけていくのを感じるはずだ。ランゲ1という時計を手にすると、時間から解放されるのだ。

▲ ピンクゴールド仕様のランゲ 1 Ref.191.032。2015年に登場したこのモデルは、ブランドを象徴する定番モデルを再設計した世代にあたる。
ランゲ 1のケースは、近年の時計デザインの中でも屈指の美しさを備えたものの一つだろう。その大きな要因となっているのが、この時計の見事なラグである。ラグは切り欠きが入り、ベベルが施され、わずかに外へ広がるような造形を持ち、どこか官能的な印象すら漂わせる。
この造形が、ダイヤルとのあいだに心地よい緊張感を生み出している。ダイヤルは、情報を機能的に表示するという点において、どこかバウハウス的とも言える簡潔さを備えているからだ。
私はこの関係性がとても好きだ。それは、例えばコシュ・デュリのムルソーのような偉大なワインの魅力にも通じる。そこでは果実味と、レーザーのように鋭い酸が緊張感をもって共存している。
この押し引きの関係が、味わいの中で驚くほどの余韻の長さとなって現れ、まるで振動するかのような強烈な印象を口中に残すのである。 これは、ランゲ1の官能的なラグと、ダイヤルとケースのクールな美しさとの対比と同じである。
ラグの造形を主導したのは、ギュンター・ブリュームラインであったことが知られている。彼はこのラグの形状に並々ならぬ情熱とこだわりを注いでいた。ランゲの専門サイトLangepediaによれば、真鍮製のプロトタイプにおいて、ラグのノッチやベベルをブリュームライン自身が手作業で削り出したとも伝えられている。
ケースサイズは直径38.5mm、厚さ9.8mm。1990年代当時のドレスウォッチとしては比較的存在感のあるサイズだった。しかし、ベゼル、ミドルケース、ケースバックにおいてポリッシュ仕上げとヘアライン仕上げを巧みに使い分けているため、ランゲ1は実際の数値以上に薄く、洗練された印象を与える。
屈指の頭脳が生んだ、キャリバー L901.0
先に述べたように、この時計の開発には時計製造界でも屈指の頭脳が結集していた。
クルト・クラウスはこう説明している。
「アウトサイズデイトの機構は、もともとブリュームラインがジャガー・ルクルトで取り組んでいたアイデアでした。しかし彼とランゲ氏は、ドレスデンのゼンパーオーパー(ドレスデン州立歌劇場)にある五分時計が非常によく似た表示を持っていることに気づいたのです。さらに素晴らしいことに、その時計はグートケスという時計師によって作られたものでした。そしてアドルフ・ランゲは、まさにそのグートケスのもとで徒弟修業をしていたのです。ブリュームラインにとって、これはランゲ1にこの日付表示を採用するための完璧な理由となりました」

▲ ドレスデンのゼンパーオーパー(ザクセン州立歌劇場)。舞台上方にある五分時計は、ランゲ1のアウトサイズデイト表示の着想源となったことで知られる。

▲ ランゲ1に搭載されるアウトサイズデイト機構の分解図
このムーブメントが、ダイヤルに刻まれた「Doppelfederhaus(ダブルバレル)」という言葉が示すように、現代ランゲ初のツインバレル・ムーブメントとなったアイデアは誰のものだったのか。
そう尋ねられると、クルト・クラウスはこう振り返る。
「それはウォルター・ランゲでした。ムーブメントの内部に十分なスペースがあることに気づき、この構造を提案したのです。というのも、ランゲはかつてこの技術的特徴を備えた懐中時計を製造していたからです」
こうした要素が結実し、自社製キャリバー L901.0が誕生した。このムーブメントは発表と同時に、すでに伝説的存在といえるほどの完成度を備えていた。
また、このムーブメントには、ザクセン時計製造の歴史的様式を感じさせる魅力的なディテールが随所に見られる。たとえば、
・スワンネック・レギュレーター
・手彫りのテンプ受け
・ブルースクリューで固定されたゴールドシャトン
・4分の3プレート
これらの要素がやや時代遅れに見えるのではないか、とシンガポールのジャーナリスト、ピーター・チョンがブリュームラインに尋ねたことがある。
それに対するブリュームラインの答えは明快だった。
「機能は時代遅れになることがあっても、美しさがそうなることは決してありません。4分の3プレートは美しくないでしょうか?」
この言葉からも分かるように、ブリュームラインは理解していたのだ。20世紀末という時代において、機械式時計の最大の役割は感情を喚起することであり、そのための最大の武器は“美しさ”であるということを。

▲ Ref.101.021のランゲ1に搭載されたムーブメント、キャリバーL901.0(Image:thekeystone.com)

▲ ランゲ1は1994年10月24日、Ref.101.021として発表された。当初のランゲ1は、ソリッドケースバック仕様だった(Image:thekeystone.com)
その後、まるでスイスの時計業界全体に対する挑発とも言える決断を、ランゲは下した。すなわち、すべての時計にダブルアッセンブリー(二度組み)工程を採用するというものだった。これは当時、他のどの時計ブランドも行っていなかった方法である。
まずムーブメントは一度組み立てられ、完璧に調整される。その後、いったんすべてを分解し、各部品に対して徹底した仕上げが施される。
エッジには丁寧な面取りが施され、グラスヒュッテ・ストライプが刻まれる。テンプ受けは手彫りで装飾され、スワンネックとガンギ車ブリッジのキャップは完璧なブラックポリッシュに仕上げられる。
そして最後に、時計は再び組み立てられ、もう一度精密に調整されるのである。
では、なぜランゲとブリュームラインはこの方法にこだわったのだろうか。その理由の一つは、彼らのムーブメントが真鍮ではなく未処理のジャーマンシルバーで作られていたことにある。ジャーマンシルバーは人の指がわずかに触れただけでも変色してしまうため、より厳密で精密な製造工程が必要だったのだ。
しかし私の考えでは、その真の目的は別にあった。それは、品質という観点においてランゲの時計が世界最高であることを示す宣言だったのではないかと思う。
独立時計師の伝説的人物であり、宇宙で最も美しい仕上げの時計を作る男とも称されるランゲの愛好家、フィリップ・デュフォーはこう語っている。
「品質という観点で見れば、ランゲはスイスで作られているどんな時計よりも上にある」

▲ 1994年10月24日、ドレスデンのレジデンツ宮殿で行われた伝説的な4本の時計の発表。
ランゲ1は1994年10月24日、3つのモデルとともに発表された。アーケード、サクソニア、そして魅惑的な〈プール・ル・メリット〉トゥールビヨンである。このトゥールビヨンは、チェーンフュジー機構を備えた世界初の腕時計でもあった。
興味深いことに、報道機関に配布された写真では、すべての時計の日付表示が「25」を示していた。ブリュームラインは、掲載される写真の多くが翌日、すなわち25日の新聞に掲載されるだろうと見越していたのである。
これらの時計は批評的にも商業的にも大きな成功を収め、四つのモデル合計123本の時計は瞬く間に完売した。その後、とりわけ強いコレクター人気を生み出したのは、ランゲ1だった。現代時計史において、これほどまでに収集家たちを魅了する存在となった時計は、そう多くはない。

▲ 1994年10月24日、A.ランゲ&ゾーネ復活の発表記者会見に臨むギュンター・ブリュームライン。
最初のランゲ1は、美しいイエローゴールドのケースにシャンパンダイヤルを組み合わせたモデルとして登場した。続いて発表されたプラチナケースにシルバーダイヤル、ピンクゴールドケースにブラックダイヤル、ホワイトゴールドケースにブルーダイヤルといった初期のランゲ1も、いずれもソリッドケースバックを備えていた。
これは、デュフォーが「量産時計の中で最も優れた仕上げ」と評するほど、ランゲがムーブメントの仕上げに並々ならぬ労力を注いでいたことを考えると、やや意外な仕様でもあった。
しかし間もなく、ランゲ1に搭載されたジャーマンシルバー製ムーブメントは、ぜひとも見せるべきだという認識が広まり、シースルーのケースバックが採用されるようになる。
その美しさはあまりに壮麗であるため、所有者の中には「いっそムーブメントを表側にして着けたい」と冗談を言う人もいるほどである。
1990年代半ばから後半:スチール製ランゲ1
このモデルの27年にわたる歴史の中で、いくつかのバリエーションがコレクターの間でカルト的な人気を獲得してきた。その最初の例が、1990年代半ばから後半にかけて製作されたスチール製ランゲ1、Ref.101.026である。製造数は30本未満とされている。
このモデルについてはLangepediaに優れた記事がある。そちらもぜひ参照してほしい。
これらの時計は、ミラノのオロロジェリア・ピサとニューヨークのチェリーニという2つの小売店のために製作されたものだった。
Langepediaによれば、ピサ向けのモデルは、同店のファビオ・ベルティーニとギュンター・ブリュームラインとの長い話し合いの末に実現したという。ブリュームラインは当初この提案に慎重だったが、最終的に、この時計をゴールドモデルと同じ価格で販売するという条件で、ベルティーニの度重なる要望を受け入れたのである。

▲ 伝説的なステンレススティール製ランゲ1、Ref.101.026。この個体は2019年12月10日にニューヨークで開催されたフィリップスのオークションに出品され、343,750米ドルで落札された(Image:Phillips.com)
その結果、ピサには20本の時計が送られた。そのうち17本はシルバーダイヤル、3本はブラックダイヤルであった。今日では、これらの時計はオークションで30万ドルを超える価格で取引されている。
同様に、ニューヨークのチェリーニ創業者である伝説的な人物、レオン・アダムズもまたスチール製ランゲ1を8本注文したが、実際に受け取ることができたのは4本だけだった。そのうちの1本は、私の親しい友人でありインスタグラムで@gva212の名でも知られるガブリエル・ベナドールの腕に収まっている。
さらに、シンガポールやドイツにも数本が納められており、その中にはブルーダイヤルを備えた個体も存在することがLangepediaによって記録されている。
1998年:ランゲ1A
まるで、黄金をこよなく愛した典型的なボンド映画の悪役、オーリック・ゴールドフィンガーのように、ランゲ1A Ref.112.021は、通常は控えめなデザインで知られるA.ランゲ&ゾーネがこれまでに作り出した中でも、相当に大胆な時計である。
その姿に目を向ければ、思わず魅了されるだろう。見えるもののほとんどすべてが純粋なイエローゴールドで作られているからだ。
巨大なゴールドダイヤルをはじめ、いくつかのバージョンではフレームブルー仕上げのスティール製スモールセコンド針を除くすべての針、さらにアプライドインデックス、そしてアウトサイズデイトのフレームに至るまで、すべてがゴールドで構成されているのである。

▲ 19世紀、A.ランゲ&ゾーネでは「1A」という表記が、最上級の素材を用い、最高度の仕上げを施した時計を示す称号として用いられていた。1998年、ランゲはこの伝統へのオマージュとして〈ランゲ 1A〉を発表した。このモデルには、無垢のゴールド製レバーとガンギ車、さらに無垢ゴールド製のアンクル受け、ガンギ車受け、テンプ受けが備えられている。加えて、ダイヤルも無垢ゴールド製で、ギヨシェ装飾が施されている。もちろんこの傑作には、ランゲ 1の仕上げとディテールもすべて備わっている。ランゲ 1Aは、1998年から1999年にかけて、イエローゴールドケースの限定100本として製作された。
ケースは当然ながらイエローゴールド製で、ダイヤルの厚みが増したことに対応するため、通常より0.2mm厚く作られている。またムーブメントにも、輪列やテンプ受け、ガンギ車受けなどに同じ素材、すなわちゴールドが用いられている。
ダイヤルには、中心点と時分表示のサブダイヤル中心の二つの点から外側へ広がる、美しいギヨシェが施されている。これは、職人が手動で操作するローズエンジン旋盤によって生み出される、波のようにうねる模様である。
1998年:リトル・ランゲ1
私が特に気に入っているランゲ1の一つであり、友人のマーク・チョーが愛用しているモデルでもあるのが、〈リトル・ランゲ1〉である。ケース径は38.5mmではなく、36.8mmとなっている。このモデルは1998年、日本市場向けに開発された。

▲ プラチナ製リトル・ランゲ1、Ref.101.062。手彫りギヨシェ仕上げのブラックダイヤルが特徴。
この時計の中でも特に美しいバリエーションの一つが、プラチナケースにブラックダイヤルを組み合わせたモデルである。ダイヤルには、ランゲ1Aに見られるものと同様のギヨシェ模様が施されている。
1999–2006年:ランゲ1“ダース”
モノクロームの美しさを極めたモデル。“ダース”は、ルーク・スカイウォーカーの父にちなんで名付けられた愛称である。力強く、純粋で、そして印象的な佇まいを備えたこの時計は、コレクターの間で強い人気を集めている。
その理由の一つは、現在のA.ランゲ&ゾーネのラインアップにおいて、プラチナケースにブラックダイヤルを組み合わせたランゲ1が存在しないことにもある。

▲ 左:ランゲ1 Ref.101.035、通称“ダース”(Image:acollectedman.com) 右:スペシャルオーダーで用意されたヴェレンドルフ製ライスビーズ・ブレスレットを装着したランゲ1“ダース”(Image:langepedia.com)
Ref.101.035の特に魅力的な点の一つは、スペシャルオーダーとして用意されたドイツの高級ジュエリーメーカー、ヴェレンドルフ製のライスビーズ・スタイルのブレスレットと組み合わせたときの姿である。
2002–2008年:プリントインデックスを備えたランゲ1
初代ランゲ1はアプライドのローマ数字インデックスを備えていたが、そのわずか1年後、ランゲはプリントインデックスを用いたダイヤルの試みを行った。この微妙な違いを持つRef.101.027xは、よりスポーティで、どこか若々しい印象のダイヤルを生み出した。
この違いは些細なものに思えるかもしれない。しかし、こうしたわずかなディテールの差異によってプリントダイヤルの個体がコレクターズアイテムとして注目されることこそが、時計収集の楽しさでもある。
その後ランゲは再びアプライドインデックスへと戻ったが、ニューヨークのチェリーニのレオン・アダムズに納められたスチールケースのモデルには、ホワイトダイヤルにブラックのプリントインデックスを備えたものが存在した。
同じダイヤルを備えたプラチナケースのモデルも、2002年から2008年にかけて少数製作された。
Langepediaによれば、これらの時計はドレスデンのエルベ渓谷がユネスコの世界遺産に登録されたことを記念したものだったという。しかしその後、この地域は世界遺産リストから除外されてしまったため、これらの時計はひっそりと市場に送り出されたようである。
2010年代:ムーブメント刷新を受けたランゲ1
どんな物語にも悲劇的な瞬間がある。先にも述べたように、ウォルター・ランゲの若き日々は、まるで聖書のヨブのように数々の不運に見舞われた。
A.ランゲ&ゾーネの歴史における最大の悲劇は、時計業界ですでに伝説的存在となっていたギュンター・ブリュームラインが、2001年にわずか58歳で早逝したことであろう。
彼はマーケターであり、ブランドビルダーであり、そして時計デザイナーでもあった。一世紀に一度現れるかどうかという人物であり、20世紀後半の時計界は彼によって大きな恩恵を受けたと言える。
彼の遺した功績の一つが、VDO傘下の三つの時計ブランドである。当時それらは総称してLes Manufactures Horlogères(LMH)と呼ばれており、最終的にリシュモン・グループへ28億スイスフランで売却された。
この3つのブランドの中でも、ブリュームラインにとってランゲは特別だった。なぜなら、それはウォルター・ランゲと彼自身によって、ゼロから築き上げられた時計ブランドだったからだ。

▲ 2015年、ランゲ1は初めて本格的な刷新を受け、技術的改良が施されたムーブメント、キャリバーL121.1が搭載された。このムーブメントには自社製ヒゲゼンマイとフリースプラング式テンプを備えている。またこの改良以降、アウトサイズデイトは正確に真夜中に瞬時切り替わるようになった。一方で、ランゲ1を象徴するデザインにはごくわずかな変更しか加えられておらず、その違いは旧モデルと並べて比較して初めて分かる程度にとどまっている。

▲ 2015年の刷新においてダイヤルに加えられた変更は、極めて微細なものにとどまっている。その違いは、二つの世代の時計を並べて比較しない限り、ほとんど見分けることができない。

▲ 新たに技術的改良が施されたムーブメント、キャリバーL121.1が採用され、自社製ヒゲゼンマイとフリースプラング式テンプを備える。アウトサイズデイトは真夜中ちょうどに瞬時に切り替わる仕様となった。
ランゲ1は、さまざまな複雑機構を加えていくためのベースとして構想されたモデルでもあった。このモデルが誕生してから27年のあいだに、多くの派生モデルが誕生した。
たとえば、マルチタイムゾーンを表示するモデルや、分表示サブダイヤルに美しく統合されたムーンフェイズを備えるモデルも登場した。
また、〈ランゲ1・デイマティック〉では自動巻きキャリバーにデイデイト表示を組み合わせ、さらにトゥールビヨンやトゥールビヨン・パーペチュアルカレンダーを備えたモデルも登場している。
2019年に発表された時計の中でも特に美しいものの一つが、〈ランゲ1・パーペチュアルカレンダー〉である。このモデルでは、初めてトゥールビヨンを伴わない形で永久カレンダー機構がランゲ1に搭載された。
とりわけ、ホワイトゴールドケースに大きなピンクゴールド製ダイヤルを組み合わせたモデルは、思わず息を呑むほどの美しさである。
このモデルとトゥールビヨン・パーペチュアルカレンダーでは、すべての表示が通常とは左右反転した配置となっている。これは、ランゲ1のデザインの調和が、逆向きでも同様に成立することを示している。

▲ ランゲ1の25周年を記念して、ブランドはさまざまな特別仕様のランゲ1を10種類製作した。これらのモデルには、無垢シルバー製のアルジャンカラーのダイヤルが採用され、数字、アワーマーカー、日付表示には深いブルーが用いられている。手作業による特別なエングレービングも施されており、裏蓋には「25 JAHRE LANGE 1」(ランゲ1誕生25周年)のレリーフ彫り文字が刻まれている。

▲ 2019年のSIHHで発表された〈ランゲ1“25TH アニバーサリー”〉Ref.191.066。ケース径38.5mm、250本限定モデル。ヒンジ付きのホワイトゴールド製裏蓋が備えられ、その内側には1873年に完成したA.ランゲ&ゾーネのファミリー工房が精緻なエングレービングで描かれている。

▲ 25周年記念〈ランゲ1〉の全モデルには、ムーブメントのテンプ受け、またはブリッジのいずれかに、25周年を記念した特別なエングレービングが施されている。そこには、「25」の数字を組み込んだアウトサイズデイトの意匠が刻まれ、節目の年を象徴している。
A.ランゲ&ゾーネの現CEOであるヴィルヘルム・シュミットは、こう語る。
「〈ランゲ1〉は、どのような複雑機構を組み合わせても、さらには永久カレンダーのように文字盤レイアウトを反転させた場合であっても、その時計は常にアイコニックで、生き生きとした魅力を放ち、現代性と美しさを失わないのです」
まさに、そのとおりである。
ブリュームラインが遺した最大の財産のひとつは、A.ランゲ&ゾーネのチームそのものだろう。なかでも現プロダクトディレクターのトニー・デ・ハースは、その精神をもっとも色濃く受け継ぐ存在である。
デ・ハースは2004年にA.ランゲ&ゾーネへ加わったが、それ以前の1997年から1999年までは、ブリュームラインのもとでIWCに勤務していた。後にルノー・エ・パピへ転職する意思を伝えた際には、ブリュームラインから「それならランゲで働かないか」と熱心に誘われたことを振り返っている。
2019年発表の〈ランゲ1・パーペチュアルカレンダー〉のようなモデルの開発について、デ・ハースはこう語る。
「ヴァルター・ランゲとギュンター・ブリュームラインという、ふたりの偉大な人物が生み出したアイコンに、新たなバリエーションを加える仕事に携われることは、この上ない名誉です」
▲ 左: 2021年発表のホワイトゴールドケースにソリッドピンクゴールド製文字盤を組み合わせた〈ランゲ1・パーペチュアルカレンダー〉。世界限定150本。(©Revolution) 右:〈ランゲ1・パーペチュアルカレンダー〉を駆動する、ランゲ自社製キャリバーL021.3をケースバック側から見たところ。(©Revolution)
私はランゲ1に何を感じるのか?
私がもっとも愛する小説のひとつに、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』がある。この物語は、愛というものに対して、盲目的とも思えるほど純粋で、それでいて揺るぎない理想を抱き続けるひとりの男を描いている。フロレンティーノ・アリサは、生涯のほとんどを愛するフェルミナ・ダーサと離れて過ごしながらも、決して想いを捨てることなく、ついには再会を果たす。
ウォルター・ランゲもまた、家族が築き上げたブランドと半世紀ものあいだ引き離されていた。その長い年月を支えたのは、いつの日かA.ランゲ&ゾーネと再会し、その栄光を取り戻せるという理想への揺るぎない信念だったのではないだろうか。
20代前半の青年だった頃から、60代後半で年金生活を送る年齢になるまで、一度も希望を捨てずに信じ続ける――その精神力は、想像を絶するものである。
私がA.ランゲ&ゾーネの物語をこれほど美しいと感じ、〈ランゲ1〉を見るたびに胸を打たれる理由も、まさにそこにある。
この時計は、単に独創的で美しいタイムピースではない。それは、ウォルター・ランゲが抱き続けた言葉にならない情熱と、希望、そして信念を受け止める“聖杯”なのである。同時に、アクセル・シュプリンガーをはじめ、いつの日か祖国ドイツが再統一され、本来あるべき姿を取り戻すと信じ続けたすべてのドイツ人の願いも、その中に宿っているように思える。
ブランドと引き離されていた長い歳月、ランゲは計り知れない苦悩を抱えていたに違いない。それにもかかわらず、苦々しさに支配されることなく、最後まで温かさと謙虚さ、そして優しさを失わなかった。その人格には、今なお驚かされる。
ブランドが復活してからさらに27年間を生き、自らの目でA.ランゲ&ゾーネが往年の栄光を取り戻し、それを超える存在へと飛躍していく姿を見届けることができた。そしてドイツ時計製造が、初めてスイス時計と肩を並べ、ある面では凌駕するまでになった光景を目にできた。その事実を思うたび、私は自然と笑みがこぼれるのである。
ウォルター・ランゲは2017年1月、92歳でこの世を去った。しかし彼は、グラスヒュッテを再びドイツ高級時計製造の聖地へとよみがえらせるうえで、決定的な役割を果たした。そのことは、晩年の彼にとって何よりの喜びだったに違いない。
1994年、〈ランゲ1〉の発表から間もなく、ウォルター・ランゲはこう尋ねられた。
「40年以上もの空白を経たブランドの時計が、現代の消費者に受け入れられると本当に信じていましたか?」
彼は一瞬の迷いもなく答えた。
「一度たりとも疑いませんでした。」
※この記事は、2021年10月30日に公開した『The Lange 1 – A Chalice of Hope & Faith』をもとに再構成したものである。
Brands:A. Lange & Söhne
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