炎に包まれ、幾度も焼成されることで生まれるエナメル文字盤。その艶やかな輝きと深い色彩は、単なる装飾ではなく、職人の経験、科学的知識、そして芸術的感性が結
Understanding Métiers d’Arts: Enameling
メティエ・ダールを理解する:炎が生む芸術―エナメル編
炎に包まれ、幾度も焼成されることで生まれるエナメル文字盤。その艶やかな輝きと深い色彩は、単なる装飾ではなく、職人の経験、科学的知識、そして芸術的感性が結晶したものだ。クロワゾネ、シャンルヴェ、フランケ、ミニアチュール——多彩な技法の奥にある、メティエ・ダールの神秘に迫る。
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by Sheng Lee. Mar 21, 2024 |
神秘のベールに包まれた技法
腕時計はロマンを体現する装置である。
腕時計には、時刻を読み取りやすくするために、ケースに匹敵するほど大きな文字盤が必要である。しかし文字盤は単なる部品ではない。それは、ごく普通の時計を魅力的な芸術作品へと昇華させる要素でもある。
優れた時計は、精巧な機構や完璧な仕上げを備えているかもしれない。だが、もし文字盤が美しくなければ、私たちを心から魅了することはない。逆に、控えめな日常の一本であっても、美しく仕上げられた文字盤を備えることで、人を惹きつけてやまない存在へと変わるのである。

▲ パテック フィリップ〈ワールドタイム Ref.5231G〉。オセアニアと東南アジアを描いたクロワゾネ・エナメル文字盤を備える。
私たちは、手頃な価格で美しく仕上げられた時計の文字盤を手に入れられる時代に生きている。ラッカー仕上げ、サンレイブラッシュ、精緻なギヨシェ彫り、そしてさまざまな装飾的デザインなど、数多くの選択肢が身近なものとなった。とりわけ日本の時計は、鮮やかな色彩や複雑なパターンの文字盤を、財布に優しい価格で提供することで知られている。
しかしコレクションを深め、さまざまな文字盤の種類を探求していくうちに、必ず出会う言葉がある。それが“エナメル”である。現代の時計製作においてエナメルは希少な存在となっており、多くの愛好家にとってどこか神秘的な響きを持つ。かつては広く行われていた工芸だったが、大量生産や最大利益を追求する中で、次第に姿を消していった。
今日ではエナメルは高価格帯の時計に用いられる技法であり、その神秘性はいっそう強まっている。たとえばクロワゾネ、シャンルヴェ、フランケといったエナメル技法の違いは何なのだろうか。
あるいは、グラン・フー・エナメルの基本とは何か、そして高価なエナメル文字盤の品質とはどうやって決まるのか。こうした疑問に答えることは、決して簡単ではない。

▲ クロワゾネ技法の典型的な例は、パテック フィリップ〈ワールドタイム〉Ref.5231Gのオセアニアと東南アジアを描いた文字盤に見ることができる。
それゆえ私たちは、エナメルの魅惑的な世界への旅へ皆さんを招待したいと思う。最近、私たちのチームはスイスにあるエナメル文字盤の製作工房を訪れた。そして、この精緻な工芸の秘密を紹介できることをうれしく思っている。
エナメルとは何か、どのように作られるのか、そしてその品質をどのように見極めるのかを探っていく。最高のエナメル文字盤を生み出している職人たちについても紹介していくつもりだ。
エナメル文字盤とは何か?
数千年にわたる歴史を持つ工芸であるエナメルは、彩色と焼成を組み合わせた技法である。金属の表面に施されたエナメルは、硬く輝きのある層を形成し、独特の光沢と温かみのある艶を放つ。
エナメルは透明なものから不透明なもの、さらにはオパールのような乳白色を帯びたものまで、さまざまである。また、彫刻、絵付け、あるいは金線による枠取りといった技法と組み合わせることもでき、中には時計製作の世界に特有のものもある。

▲ スイスのエナメル工房、ドンツェ・カドランを訪問した際、さまざまなエナメル文字盤を実際に手に取って見る機会を得た。
エナメルが時計製作においてとりわけ興味深いのは、その小ささにある。文字盤は、エナメル装飾が施された箱や花瓶などと比べ驚くほど小さい。しかしそれでも、エナメルが持つ複雑さと美しさを余すことなく表現している。
エナメルは見た目に美しいだけでなく、耐久性にも優れている。経年によって劣化したり変色したりすることがなく、場合によっては超音波洗浄機で洗浄することさえできる。
では、エナメルとはいったい何なのだろうか。また、それはガラスや磁器とはどのように異なるのだろうか。
エナメルの主成分はシリカである。それは単なるガラスとは異なる特殊ガラスの一種だ。通常は金属製のベースプレートに密着させるために、焼成による融合プロセスが必要となる。一見すると単純な作業のように思えるかもしれないが、そこには深い科学的知識が必要である。

▲ 著名なエナメル職人アニタ・ポルシェが、パレットの色を慎重に試しながら制作に臨む。作品はヨハネス・フェルメールの名画『真珠の耳飾りの少女』を見事に再現したものだ(Image:Vacheron Constantin)
ここで問題が生じる。通常、ガラスの焼成温度は1300度以上に達するが、エナメル文字盤のベースプレートに用いられる銅や金といった金属の融点はおよそ1000度前後である。したがって、焼成の過程でベースプレートが溶けてしまう。これを防ぎつつ、色鮮やかなガラスの美しさを保つためには、焼成温度を下げる必要がある。
この温度を下げ、エナメル粉末を溶融するために加えられるのがフラックス(融剤)である。代表的なフラックスには、炭酸ナトリウム(ソーダ灰)や水酸化カリウム(ポタッシュ)などがある。
また、この溶融プロセスは“エナメル”という言葉の語源にもなっている。エナメルは、古高ドイツ語の“smelzan”や古フランス語の“esmail”に由来し、いずれも“溶かす”、“融合させる”という意味を持つ。すなわち、粉末状のガラスを高温で溶かし、表面に融合させるというエナメル制作の工程そのものを表している。
さらに、溶融と融合の工程を完成させるためには安定剤の添加も不可欠である。これによりエナメルは硬度を増し、水に溶けない性質を持つようになる。一般的な安定剤には酸化鉛や四酸化三鉛などが用いられる。
では、エナメル文字盤を特別な存在にしているものとは何なのか。そして、なぜそこには職人の高度な技術が求められるのだろうか。本稿の目的はまさにそこにある。エナメル制作における技術的・工芸的な複雑さを掘り下げ、そのクラフツマンシップの核心に迫っていきたい。
エナメル文字盤はどうやって作られるのか?
高品質なエナメル文字盤の製作は、まず原材料を適切に準備することから始まる。
エナメル職人ガブリエル・コリアールはいう。
「エナメルの準備と洗浄はエナメル技法の基本であり、作品の出来栄えはこの最初の工程に左右されます」
通常、エナメルの原材料は自社で製造されるのではなく、専門のサプライヤーから調達される。供給元の工場では、まずシリカを主成分とする混合物を溶融させ、そこに金属酸化物を加えて色を付けることでエナメルの原料を作る。この混合物は冷却された後、岩状、あるいは粉末状へと砕かれる。

▲ エナメル文字盤の製作工程と使用される道具。右下に見える乳鉢と乳棒は、原材料をすり潰すために用いられる (Image: anOrdain)
エナメルが岩状の形で文字盤工房に届いた場合、エナメル職人はそれを手作業で粉砕し、ちょうどいい粒度にまで細かくする必要がある。
アンオーダインの創業者ルイス・ヒースによれば、この手作業による粉砕と洗浄の工程は、粒子の大きさをより精密にコントロールし、エナメルが不純物によって汚染されるのを防ぐ役割があるという。

▲ 溶融したエナメルを粉末状にする工程。
文字盤ブランクの準備
文字盤ブランク(文字盤のベースとなる金属板)もまた、注意深く準備される。伝統的には金や銀といった貴金属から作られてきたが、現代では銅、スチール、セラミックなどの素材もブランクに用いられている。
エナメルを施す前には、これらの金属ブランクを徹底的に洗浄しなければならない。そうしなければ、エナメルの色が不純物によって汚染される可能性があるのだ。
それぞれの素材には特徴がある。たとえば金は非常に安定しており、腐食や酸化に強いため、文字盤ブランクの素材として理想的である。とりわけホワイトゴールドは、イエローゴールドやピンクゴールドよりも好まれる。後者は銅を含んでおり、その銅が酸化してエナメルの色に影響を与える可能性があるからだ。
さらに金には、何度も焼成しても変形しにくいという利点もある。エナメル職人によれば、100回以上の焼成を行っても金のブランクは安定した状態を保つという。
一方で銅は酸化しやすく、エナメルを汚染する可能性がある。しかし、銅はエナメルのベースとしては一般的な素材でもあり、この問題に対処する方法がいくつか考えられている。
たとえば、文字盤ブランクを厚くする、焼成回数を減らす、あるいは不透明エナメルを用いるといった方法である。
また銅は他の素材と同様、繰り返し焼成すると変形することがあるため、焼成後に文字盤を平らにする作業が必要となる。それでも銅は、試作やさまざまな色の表現を試すには有用な素材である。
ドンツェ・カドランのディレクターであるクロード=エリック・ジャンが指摘するように、歴史的に見ても銅は重要な素材であった。実際、三世紀以上前には名門ブランドが銅のブランクを用いて文字盤を製作していた。
また、銅をベースとする工芸の代表例として、中国のクロワゾネ七宝がある。これは明代の景泰年間(1450〜1457年)に大きく発展した。こうした歴史的事例は、銅が工芸用途において長く使われてきた証左である。ただし、透明やオパール調のエナメル表現には適していない。
銅の価格は手頃なので、エナメル文字盤をより多くの人に届けることができる。たとえばルイ・エラール〈エクセレンス エマイユ グラン・フー〉のアイボリーエナメル文字盤など、エントリーレベルのエナメル時計では銅が一般的に用いられている。
さらにセイコーのようなメーカーも、エナメル文字盤のベース素材として銅やスチールを採用している。
スチールは剛性が高く、焼成時の酸化にも強い素材である。しかしその硬さゆえに、単色エナメル文字盤の量産には適しているものの、繰り返し焼成にはあまり向いていない。ひび割れが生じやすく、クロワゾネエナメルには適さないからである。
どの素材を用いる場合でも、文字盤ブランクの裏側には時計に固定するための脚(ダイヤルフィート)を取り付けなければならない。この工程ははんだ付けによって行われるが、繊細な作業である。固定が強すぎるとブランクが歪み、焼成時にエナメルが割れる原因となるのだ。
エナメルの塗布技法
エナメル粉末と文字盤ブランクの準備が整ったら、次の工程はそれを文字盤に塗布する作業である。この工程では、エナメルを層ごとに正確に塗り重ねていき、その都度オーブンで慎重に焼成する。一度に厚いエナメル層を塗って焼成すればよいようにも思えるが、それははNGだ。内部に気泡が閉じ込められたり、文字盤が歪んだりするなど、さまざまな欠陥を引き起こすからだ。
焼成前に塗るエナメル層が薄いほど、内部に気泡が残る可能性は低くなる。そのためエナメル制作では、複数の層を順に塗布し、その都度焼成するという工程を繰り返す。この方法によって、段階的な調整や修正が可能になる。エナメル特有の深い色合いと光沢を得るために、近道は存在しないのだ。
エナメルの塗布方法にはさまざまな種類がある。エナメルは湿式でも乾式でも塗布することができ、ヘラ、ふるい、あるいは筆などの道具が用いられる。文字盤制作では、小さな筆を使い、蒸留水を結合剤として混ぜたエナメルを塗布する方法が一般的である。主にホワイトゴールドやイエローゴールドなどの金素材の上に用いられる。
職人は筆を使い、手仕事によってエナメルを層ごとに塗り重ねる。文字盤は一つ一つの工程を積み重ねながら作り上げられていくのである。

▲ エナメル文字盤の製作には多くの人の手が関わる。焼成工程に入る前に、エナメルの層はすべて手作業で塗り重ねられるからである(Image: Ulysse Nardin)
エナメルは美しい工芸であり、時計愛好家なら一度は手にしたいと願う。効率的に製作する技法もあるが、決して完全な工場生産品ではない。
たとえば単色文字盤、ホワイトエナメル文字盤の製作を考えてみよう。この場合、エナメル粉末をふるいで振りかけ、複数のベースプレートに同時に塗布する方法が用いられることがある。
ベースプレートは通常、銅で作られている。粉末がオーブンに入れる前に飛散してしまうのを防ぐため、その上にアルコールの層をかける。そして焼成が始まると、このアルコールは美しい炎を上げて燃え上がる。
一般的に、エナメルの下にある文字盤ブランクは、貴金属や銅など比較的柔らかい金属で作られている。高温で焼成する工程では、エナメル層だけでなくベースプレートも変形する可能性がある。
この問題に対処するため、エナメル職人は文字盤の裏側にもエナメル層を施す。これをフランス語で“コントル・エマイユ(contre-émail)”、英語では“カウンターエナメル”と呼ぶ。この裏面のエナメル層が力のバランスを取り、金属の膨張と収縮を制御することで、文字盤ブランクを平らな状態に保ち、曲がりなどの変形を防ぐのである。

▲ 魅惑的な光景――ドンツェ・カドランの窯の中で炎に包まれるエナメル文字盤。
とはいえ、フェルディナント・ベルトゥーのように、スチールなどのより硬いベース素材を採用し、カウンターエナメルを不要とする時計メーカーも存在する。この方法は革新的と評価する声もある一方で、コスト面で有利な選択と見る意見もある。
というのも、スチールでは、特に透明やオパール調のエナメルにおいて、金ほど高い品質の仕上がりが得られない場合があるからだ。しかし、スチールベースで透明エナメルを施した文字盤でも、金をベースにしたものと同様に美しい仕上がりを実現できるという意見もある。
エナメル層の研磨
エナメル制作の工程では、サンディング、ラッピング、ポリッシングなどの研磨作業が必要になる。エナメル層の大きな気泡などの欠陥を取り除き、次の層を塗布するための滑らかな表面を作るのである。
研磨はエナメル制作の中でも繊細な技術の一つであり、その程度はエナメル文字盤の種類によって異なる。たとえば単色文字盤では、より多くの研磨が求められることが多い。工房での製造でも、独立した職人の制作でも、焼成と焼成の間にエナメル層を研磨することで、単調な背景では特に目立ちやすい細かな欠点を抑えているのである。

▲ クリーム色のエナメル文字盤にルビーのインデックスを配した、現代のヴァシュロン・コンスタンタンのミニッツリピーター。
工場では、この研磨工程は多くの場合機械によって行われる。この方法はラッピングと呼ばれる。一方、工芸的な工房では研磨は手作業で行われる。エナメル職人によれば、すべての層を毎回研磨する必要はなく、エナメルを三〜四層ほど重ねた段階で行えば十分な場合もあるという。
ただし、色彩豊かなクロワゾネ・エナメル文字盤の研磨は容易ではない。すべての色がこの工程に適しているわけではないからだ。さらに、工房での制作では文字盤ブランクの縁が盛り上がっている場合があり、そのため最初の数層では研磨を行うことができない。エナメルが縁と同じ高さ、あるいはそれ以上になるまで重ねられて初めて研磨が可能となる。
また、ひび割れや気泡などの欠陥が現れた場合には、職人はその層を丸ごと取り除き、修正を施す。もっとも、エナメル制作に完全無欠というものはない。
たとえば大きく粗い気泡は避けることができるが、遠くからは見えないほどの微細な気泡はごく自然なものであり、肉眼で確認できない程度の気泡を持つ文字盤はむしろ良質と見なされる。実際、それはその文字盤がラッカーではなく、本物のエナメルであることの証でもある。
インデックスの取り付け
場合によっては、完成したエナメル文字盤に時分のインデックスを加える必要がある。これは、エナメルインクを手描きで文字盤に描く方法、あるいはパッド印刷によってエナメルインクを転写する方法で行われる。この場合、インデックスをベースのエナメル文字盤に定着させるため、さらに焼成が必要となる。あるいは、追加の焼成を必要としない通常のインクをパッド印刷することもある。
アプライドインデックスを用いる場合は、この段階で文字盤に穴を開ける。インデックスの脚をその穴に通し、裏側で折り曲げて固定することで、一般的な文字盤と同様にしっかりと取り付けられる。
エナメル文字盤の製作には、材料の入念な準備、多層にわたる塗布と仕上げが必要であり、その過程で職人が細かな調整を行う。このように段階的に進める方法こそが品質管理の要であり、長年にわたって愛用できる完璧なエナメル文字盤を生み出すのである。
グラン・フー・エナメルと、その焼成温度の基準
エナメル文字盤がヴィトルー(ガラス質)エナメル、あるいはグラン・フー・エナメルと呼ばれるためには、どの程度の焼成温度が必要なのかという点については、しばしば議論が交わされる。
フランス語の“グラン・フー(grand feu)”は直訳すると“大きな炎”を意味する。クロワゾネ、ミニアチュール、フランケなど種類を問わず、正しい焼成工程を経た本物のエナメル文字盤は、いずれもヴィトルー、あるいはグラン・フー・エナメルと見なされる。本格的なグラン・フー焼成では、焼結あるいはガラス化を起こすために高温が必要となる。
この工程では、エナメル素材を溶融させてベースプレートに融合させることで、ガラスのような外観と質感を生み出す。焼成温度が低すぎると、仕上がりの質が十分に高くならず、エナメル文字盤に特有の輝きを得ることができない。
エナメル制作の専門家に、エナメルと呼ぶことができる最低焼成温度について尋ねると、アンオーダインでは通常800度以上だという。またエナメル職人ガブリエル・コリアールによれば、特に赤色エナメルを扱う場合には、焼成温度は720〜850度程度の範囲になるらしい。まとめれば、概算として800度前後と考えるのがわかりやすい。
しかし、エナメル文字盤工房ドンツェ・カドランを傘下に持つユリス・ナルダンは、より厳密である。ドンツェ・カドランによれば、フランスの国家法である1982年2月25日付け政令第82-223号には次のように規定されている。
第1条:“エマイユ”という名称は、鉱物質からなる物質を溶融、ガラス化、あるいは焼結することによって得られる製品に限定される。これらの製品は、一層または複数層からなるガラス化被膜を形成し、少なくとも500度以上の温度で溶融されなければならない。
第2条:第1条に定める定義を満たさない製品について、エマイユという名称を用いて製造、展示、販売、販売、保管、無償配布を行うこと、この語を含む名称で表示することは禁止されている。
基本的なグラン・フー・エナメル文字盤を超えて、エナメルには職人の芸術性を表現するための多彩な技法が存在する。クロワゾネ、シャンルヴェ、フランケ、パイヨネ、グリザイユなどがその代表例である。ここでは、それらを一つずつ見ていこう。
#1:モノクローム・エナメル
エナメル文字盤の最もシンプルな形式は、文字盤全体に単一色のヴィトルー、あるいはグラン・フー・エナメルを施したものだ。一見すると単純に思えるが、実際は難しい。理由は明快で、大きな文字盤を単色で仕上げる場合、わずかな欠陥も隠すことができないからである。
とりわけ黒のエナメル文字盤は、最も難しいものの一つとされている。そのため、複雑なエナメル絵画ではなく、あえてシンプルなブラックエナメル文字盤を採用する高級時計も少なくない。見た目は控えめでありながら、その仕上がりは技の冴えを雄弁に物語る。
たとえばパテック フィリップ〈グランド・ソヌリ〉Ref.6301Pは、深い光沢を湛えたブラックエナメル文字盤を備えている。

▲ ジェットブラックのエナメル文字盤を備えたパテック フィリップ〈グランド・ソヌリ Ref.6301P〉
完璧なエナメル文字盤を作るための技法の一つが、ミラーポリッシュである。この方法では、エナメル表面を慎重に研磨し、鏡面のような輝きを生み出す。そのためには、エナメルを極めて薄い層で塗り重ねていく必要がある。
焼成のたびに文字盤は丁寧に修正され、その後さらにエナメルを重ねて再び焼成する。研磨の工程は非常に手間がかかり、何度も繰り返される。というのも、この作業によってエナメル内部に閉じ込められた気泡が露わになるからだ。その場合、ダイヤモンドバーを用いて気泡を取り除き、その後も研磨が続けられる。
コリアールによれば、一つの作品で最高100回ほど焼成と研磨を繰り返すこともあるという。また工程全体のうち焼成の時間は10〜20%ほどで、残りの大部分は研磨に費やされる。単色エナメル文字盤を完成させるには高度な職人技が求められる。
この技法はさまざまな単色エナメル文字盤に用いられるが、特に黒文字盤においてその真価を発揮する。現在では、深く濃密で、気泡などの欠陥が一切ない完璧なブラックエナメルを実現することが、モノクロームのグラン・フー・エナメル文字盤制作において最も難しいとされている。
コリアールは、この技法こそエナメル制作の中でも最も要求水準が高いと述べている。一方で、後に触れるミニアチュール・エナメル絵画は、さらに複雑な工程を伴う技法だという。
#2:クロワゾネ・エナメル
20世紀半ばのイラスト入りエナメル文字盤を備えたヴィンテージ時計が数多く出回っていること、さらに近年ワールドタイムが再び人気を集めていることもあり、クロワゾネは最もよく知られたエナメル技法となっている。この技法はエナメルの中でも最も古く、機械式時計が誕生するはるか以前から存在していた。
エナメル技法の正確な起源についてはいまだ議論があるものの、最古のエナメル工芸品が紀元前1425年頃のミケーネにまで遡ると考えられている。これは現在からおよそ3500年前にあたる。また、キプロスでも発見されており、紀元前1400年頃のククリアの金の指輪や、紀元前1200年頃のクーリオンの黄金の王笏などが知られている。
これらの工芸品には、小さな金属の区画の中に色付きエナメルを配置する技法が用いられている。これは後にクロワゾネとして知られることになる技術である。

▲ 龍を描いたクロワゾネ・エナメル文字盤を備える、1952年頃製のロレックスRef.6085。

▲ 作品の輪郭が彫刻された金の文字盤ブランクの上に、金線を配置する。彫刻工程は手作業でも機械でも行うことができる(Image: Donzé Cadrans)

▲ ヴァシュロン・コンスタンタン〈オーデュボン “バーズ・オブ・アメリカ”〉の文字盤は、クロワゾネ技法を応用した例である。鳥の大まかな輪郭は金線で形作られ、細部の表現はミニアチュール・エナメル絵画によって巧みに描き込まれている(Image: Phillips)
クロワゾネ・エナメルは、細い金線を曲げて図柄を作る技法である。これらの金線は文字盤の上に固定され、小さな区画(セル)を形成する。そして、その区画の中に色とりどりのエナメルを流し込むことで、精緻な模様を作り出す。
現代では、クロワゾネ・エナメルは中央に地図を配したワールドタイムの文字盤に用いられる技法として特に知られている。しかし、クロワゾネはそれだけに限られるものではない。ヴァシュロン・コンスタンタンの作例が示すように、この技法はより芸術的な表現にも用いることができ、美しい図像を描き出すことが可能なのである。

▲ ヴァシュロン・コンスタンタン〈レ・キャビノティエ - ラ・カラベル 1950〉は、1950年代の優雅なデザインから着想を得た文字盤を備える現代の腕時計である。この一点物の作品は、著名なエナメル工房アニタ・ポルシェとの協働によって完成した。
#3:シャンルヴェ・エナメル
クロワゾネ・エナメルがエナメルと金線による枠取りを組み合わせた技法であるのと同様に、シャンルヴェ・エナメルもエナメルと別の工芸技術を組み合わせたものだ。この場合、その技術とは彫刻である。そのため、この技法には彫刻師とエナメル職人という二人の職人の協業が必要となる。
彫刻はネガティブ(彫り下げ)方式で行われることもある。たとえば、絵柄を文字盤に彫り込み、その空洞部分にエナメルを流し込む方法である。あるいはレリーフ方式で行われることもある。主要な部分を浮き彫りにし、それ以外の部分をエナメルで満たすという方法だ。

▲ ジャン=クロード・ビバーがかつて所有していたプラチナ製パテック フィリップRef.1579のシャンルヴェ・エナメルによるレタリング(Image: Phillips)
シャンルヴェ・エナメル技法の代表的な用途の一つが、文字盤にブランドロゴや目盛りを表現する方法である。この技法は1970年代頃まで頻繁に用いられていた。
まず金属製の文字盤にブランド名の文字や時分のトラックを彫り込み、その溝にエナメルを流し込んで焼成する。こうして完成した文字や目盛りは文字盤表面よりわずかに盛り上がり、ロゴやスケールに控えめながら立体的な表情を与える。その結果、微妙な奥行き感が文字盤に生まれる。目の肥えた愛好家にとっては、その違いは明確だ。
シャンルヴェ・エナメルによるレタリングを備えたヴィンテージ時計は、コレクターの間で高く評価されている。しかし実際には見つけるのが難しい。修復の際にエナメルが平らに研磨されてしまうことが多く、本来の立体感が失われてしまうことがあるからだ。

▲ パテック フィリップ Ref.1579の全体像。プラチナ製はわずか3本しか知られていない。
#4:フランケ・エナメル
エナメルのもう一つの代表的な表現方法が、フランケ技法である。これはギヨシェ彫りとエナメルを組み合わせた技法だ。
まず文字盤にギヨシェと呼ばれる繰り返し模様の彫刻が施される。フランケとは、この幾何学的な模様を作り出す技法を指し、その方法には主に三つある。伝統的なエンジンターン、CNCによる彫刻、そしてハードスタンピングである。
こうして模様が形成された後、文字盤の上に透明エナメルを何層にも重ねて塗布する。透明エナメルを用いると、下にあるギヨシェ模様が透けて見えるようになる。これは不透明エナメルとは対照的な特徴である。
また、ベースプレートの色が最終的な仕上がりに影響する点にも注意が必要だ。そのため、高温で焼成した際に大きく色が変化したり、色むらが生じたりする素材は適していない。フランケ技法では、適切なベースプレート素材を選ぶことが重要である。

▲ A.ランゲ&ゾーネ〈カバレット・トゥールビヨン “ハンドヴェルクスクンスト”〉。文字盤は彫刻が施された後、エナメル層で覆われた (Image: A. Lange & Söhne)
#5:パイヨネ・エナメル
あまり見られない技法であるパイヨネ・エナメルは、エナメル表面に薄い金属箔を配置して装飾を施す技法である。“パイヨネ”という言葉は、フランス語の“パイヨン(paillons)”に由来し、“薄い金属箔”を意味する。
パイヨネ・エナメルを制作する際には、花などの装飾的なモチーフや形状を、金や銀で作られた薄い金属箔から切り出す。こうして作られた金属箔を表面に配置し、その上から透明または半透明のエナメルを重ねて焼成することで装飾を固定する。
不規則な形の金属片を表面に散らして模様を作ることもある。パイヨネ・エナメルは単独より、ミニアチュール・エナメルやクロワゾネ・エナメルといった他の技法と組み合わせて使われることが多く、デザインの特定の部分を強調したり、視線を引き付けるアクセントとなる。

▲ ジャケ・ドローがチャリティーのために製作した〈プティ・ウール ミニット パイヨン オンリー・ウォッチ〉。パイヨネ・エナメルが使われている。
#6:ミニアチュール・エナメル絵画
クロワゾネ・エナメルと同様に、ミニアチュール・エナメルも精緻な絵画表現で知られる技法である。しかしクロワゾネとは異なり、ミニアチュール・エナメルは職人に大きな自由を与える。
画家は金線による区画に縛られることなく、筆致を重ねたり輪郭を調整したり、細部を強調したりできる。クロワゾネに見られるモザイク状の囲いから解き放たれ、自在な表現が可能となる。
ミニアチュール・エナメルは、過去の名画を再現するためによく使われる。エナメル職人ガブリエル・コリアールに話を聞いた。

▲ ミニアチュール・エナメル文字盤の制作には、構図、色彩、コントラストを綿密に計画することが求められる。焼成のたびに色合いが変化するため、高い精度が必要となる(Image: Gabriel Colliard)
ミニアチュール・エナメルは、他のエナメル技法とは異なる特徴を持つ。最大の違いは材料の組成にある。ミニアチュール・エナメルでは、通常のエナメルとは逆に、シリカよりも金属酸化物の割合が多い原料が用いられる。この違いにより絵画表現に適した、より豊かな色彩パレットが可能となる。
さらに、粉末状にしたエナメルは、水ではなく精油と混ぜてから文字盤に塗布される。この色付き酸化物と油の混合物はペースト状となり、職人に大きな表現の自由を与える。
まるでキャンバスに向かう画家のように自在な表現が可能となり、著名な芸術家の作品を忠実に再現することも、また独自の作品を生み出すこともできる。その無限ともいえるニュアンスと表現力が、ミニアチュール・エナメルの魅力なのである。

▲ 超精密に描かれたミニチュアール・エナメルの作品。
職人は、点描、短長の筆致、勢いのある筆使い、印象派のようなタッチまで、さまざまな技法を用いることができる。それぞれのタッチは独自の表情を生み出し、作者の個性を反映させる。
鮮やかな色彩を実現するためには、色を何度も塗り重ね、その都度オーブンで焼成して色の深みを引き出していく必要がある。こうして完成する作品は、まさに小さな芸術品と呼ぶにふさわしい。
ミニアチュール・エナメル絵画において重要な工程の一つに、ジュネーブ技法がある。この技法では、完成した絵の上にフォンダンと呼ばれる透明で無色のエナメルをさらに一層重ねる。焼成の過程でこの層が溶融すると、作品を保護する膜となり、傷や損傷から守る役割を果たす。
この保護工程は、エナメルが外側に露出する懐中時計や置時計では特に重要である。これに対し、腕時計の文字盤は通常クリスタルガラスに守られているため、外部からの影響を受けにくい。

▲ 文字盤に施されるミニアチュール絵画の芸術的な技(Image: Jaeger-LeCoultre)
フォンダンの起源は、懐中時計のケースのように外側に露出するミニアチュール・エナメル絵画を保護することにあった。エナメルの上にフォンダンの層を施しておけば、たとえ表面に軽い傷が付いた場合でも、フォンダン層を研磨することで元の輝きを取り戻すことができる。
さらにフォンダン仕上げは保護機能だけでなく、均一で美しい光沢のある表面を生み出す。フォンダン層がない場合、筆致の跡がそのまま現れ、部分ごとに光沢の度合いが異なって見えてしまう。フォンダン層はこうした不均一さを覆い隠し、ミニアチュール絵画に均質で高品質な仕上がりを与える。
今日では、このフォンダン層を施すジュネーブ技法は、実用的な必要性というよりも、主に美的選択として用いられるようになっている。
#7:グリザイユ・エナメル
グリザイユ・エナメルは、現代ではあまり見られない技法である。これはミニアチュール・エナメル絵画の一種だが、単色のグラデーションだけで表現される。
まず、黒、青、または灰色のエナメルを用いて暗い下地層を作る。その上に、同系色のより明るいエナメルを何層にも重ね、濃淡の変化によって絵画を構成していく。
グリザイユ・エナメルは、色彩豊かなパレットに頼ることなく、光と影の対比によって表現を生み出す技法であり、絵画技術の高さを示すものとされている。

▲ チャリティーオークション、オンリーウォッチ2023のために製作されたルイ・ヴィトン〈タンブール アインシュタイン オートマタ〉(Image: Louis Vuitton)
#8:プリカジュール・エナメル
もう一つの特異な技法が、プリカジュール・エナメルである。この技法は、区画(セル)に色を施す点でクロワゾネと似ている。しかしクロワゾネとは異なり、プリカジュールでは金属の下文字盤を用いない。
代わりに、エナメルは中空のセルの中に塗布される。制作の際には、一時的にガラスの裏板で支えながらエナメルを焼成し、焼成が完了した後にその裏板を取り除く。この技法によって、ステンドグラスのように光を透過するエナメルが生まれ、その背後にある要素――たとえば時計の精巧な機構など――を透かして見ることができる。

▲ ヴァシュロン・コンスタンタン〈メティエ・ダール レ・アエロスティエ〉は、プリカジュール・エナメルの優れた作例であり、半透明のエナメル越しにその下に配置された4枚の回転式ディスクによる時刻表示機構を見ることができる(Image: Vacheron Constantin)
著名なエナメル職人
過去数世紀にわたり、数多くの卓越したエナメル職人が存在してきた。なかでもジャン=フランソワ=ヴィクトール・デュポン、カルロ・ポルッツィ、シュザンヌ・ロールといった名前はよく知られている。
しかし歴史的な作品の多くには作者の署名が残されておらず、それらを誰の作品か特定することは学術的な研究対象となっている。それでも、これらの傑作はオンラインや博物館で鑑賞することができ、エナメル芸術を学ぶうえで貴重な教材となっている。
ここでは、現代のエナメル制作者について見ていこう。現在、エナメル文字盤を制作する主体は大きく三つのタイプに分けられる。
第一は、文字盤の製造に特化した専門工房である。ダイヤル作りに専念し、さまざまな時計ブランドへ供給している。
第二は、時計メーカー内部の工房である。たとえばパテック フィリップやヴァシュロン・コンスタンタンといったブランドは、自社のメティエ・ダール工房を持ち、エナメル文字盤を自社で制作することができる。
第三は、著名な芸術家が率いる小規模な工房である。アニタ・ポルシェのような作家がその代表例であり、卓越した技術と芸術的なビジョンによってエナメル文字盤を生み出している。

▲ ブルーの手彫りギヨシェ・エナメル文字盤を備えたパテック フィリップ〈ミニット・リピーター〉Ref.5178G
文字盤の製造に特化した専門工房
エナメル文字盤の製造を専門とする文字盤メーカーとしては、ドンツェ・カドランが挙げられる。同社は1972年に設立され、2011年にユリス・ナルダンに買収された。単色エナメル文字盤から、クロワゾネやシャンルヴェといった高度な工芸技法によるエナメル文字盤まで、幅広い種類を製造している。
ドンゼ・カドランの特筆すべき点は、品質と生産量の両立を実現していることである。大手ブランドを含むさまざまな時計ブランドへ文字盤を供給している。この点は、小規模な工芸工房とは異なる同社の大きな特徴でもある。
スイスには他にも文字盤メーカーが存在する。たとえばルバテル・エ・ヴェイエルマンは1890年にラ・ショー=ド=フォンで創業し、2002年にスウォッチ グループの傘下に入った。
日本では、富士ホーローがエナメル製品の主要メーカーとして知られ、セイコーにエナメル文字盤を供給している。

▲ アンオーダインによる、フュメ仕上げ(文字盤の中心から外周に向かって色が徐々に濃くなるグラデーション仕上げ)を施したプラムカラーのエナメル文字盤。
工場でエナメル文字盤を生産する場合、さまざまな方法が用いられる。そのなかには量産に適した方法も存在する。たとえば、大きなエナメル板を作り、それを後から個々の円形文字盤に切り出す方法がある。
ただし、エナメルは均質な素材ではないため、同じ板から切り出された文字盤でも、斑点などの小さな欠点を含めて個体差が生じる。そのため各メーカーは、仕上がりに応じて等級を分け、価格を設定している。
比較的手頃な価格でありながら、品質の高さで評価されているものもある。ドンツェ・カドランは、セイコーやアンオーダインのエナメル文字盤を高く評価している。
時計メーカー内部の工房
エナメル文字盤の制作者の第二のカテゴリーは、自社に工房を構えるブランドである。代表的な例として、パテック フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ジャガー・ルクルト、カルティエなどが挙げられる。これらのブランドはメティエ・ダールの専門工房を持ち、エナメル文字盤を自社内で制作することができる。
近年の時計界では独立系ブランドに大きな注目が集まっている。その多くは確かに高く評価されるべき存在である。しかし同時に、エナメル芸術を守り続ける上で、大手時計ブランドが重要な役割を果たしていることも忘れてはならない。
たとえばパテック フィリップは、自社で制作するエナメル文字盤の品質の高さだけでなく、その制作数の多さでも知られている。とりわけ毎年発表される“レア・ハンドクラフト”コレクションでは数多くのエナメル作品が登場する。
パテック フィリップは独立したエナメル職人とも協働しているが、専門家たちはパテックが自社で制作するエナメル文字盤の質と量を高く評価している。

▲ エナメルによるストライプ装飾を施したカルティエ〈クラッシュ ティグレ〉
ヴァシュロン・コンスタンタンも大規模な工房を擁しており、メティエ・ダール部門とユニークピースの制作プログラムを備えている。
ジャガー・ルクルトは、アイコニックな〈レベルソ〉コレクションにおけるミニアチュール・エナメルで知られ、その伝統を受け継いできた。
さらに、エルメスやルイ・ヴィトンといったファッションブランドも、この分野で独自の存在感を示している。
こうした時計ブランドは、エナメル芸術の世界において重要な役割を担っている。職人の育成を通じて技術を継承し、一定の生産量を維持することで、市場にエナメルへの関心を持続させているのである。
その好例がヴァン クリーフ&アーペルで、ジュエリー的なエナメル装飾に重点を置き、業界でも最大規模のエナメル工房を持つとともに、新しいエナメル職人の育成にも力を入れている。
一方で、小規模なブランドのなかにも、自社でエナメル文字盤を制作し始めているところがある。たとえばアンオーダインがその一例だ。先に挙げた大手ブランドと直接競合する存在ではないものの、よりシンプルで手の届きやすい価格のエナメル文字盤を提供することで、幅広い時計愛好家がエナメルの魅力を楽しめるのだ。
さらに、時計ブランドは研究開発にも取り組んでいる。たとえばカルティエは、芸術工芸分野における新しい技法の研究を絶えず続けている。こうした取り組みは、エナメル工芸の伝統を支え続けるものであり、時計ブランドが評価されるべき理由でもある。
芸術家が率いる小規模な工房
最後に挙げられるのが、卓越したエナメル職人が率いる小規模な工房である。こうした工房は、最も贅沢な文字盤の制作に専念している。その代表例が、現代を代表するエナメル作家の一人として広く知られるアニタ・ポルシェの工房である。
アニタはシュザンヌ・ロールをはじめとする20世紀の著名なエナメル職人のもとで修業を積み、その工房は現在、多くの高級ブランドや独立系時計師から制作の依頼を受けている。
その代表的な作品としては、オーデマ ピゲ〈CODE 11.59 グランドソヌリ カリヨン・スーパーソヌリ〉や、ヴァシュロン・コンスタンタン〈レ・キャビノティエ・ウェストミンスター・ソヌリ -ヨハネス フェルメールへ敬意を表して-〉懐中時計などが挙げられる。さらにパテック フィリップ、シャネル、エルメスといった名門ブランドのためにも数多くのユニークピースを制作してきた。
もう一人注目すべき独立系エナメル職人が、ガブリエル・コリアールである。彼はパテック フィリップをはじめ、ルドヴィック・バルアーやアクリヴィアといった独立系時計師のために、高品質なミニアチュール・エナメルを制作していることで知られる。
コリアールの最近の仕事の一つが、レジェップ・レジェピ〈クロノメーター・コンテンポラン II〉プラチナモデルのエナメル文字盤である。一見すると、グレーのエナメルによるスモールセコンドが配され、その内部に手彫りのグラッテ模様が現れる以外は、ブラックエナメルのシンプルな文字盤に見える。しかし、その完璧な仕上がりは、コリアールの技術力の高さを物語っている。

▲ アニタ・ポルシェ(Image: Louis Vuitton)
エナメル技法の未来
何世紀にもわたる伝統を持つエナメルは、文字盤装飾の頂点に位置するといえる。技術の進歩が著しい現代にあっても、エナメルはいまだに手作業に依存する数少ない(あるいは唯一の)文字盤製作技法である。
コンピューター数値制御(CNC)機械がギヨシェ文字盤を再現しようとしている一方で、エナメル文字盤を作ることができるマシンはいまだに存在しない。
エナメル技法の衰退、秘伝の喪失を心配する声もあるが、現状は必ずしも悲観的ではない。かつてエナメル工芸には体系的な教育制度がなく、技術は職人から職人へと口伝えで受け継がれてきた。しかし現在では、フランスのリモージュやスペインのバルセロナにおいて、エナメルのディプロマ課程が設けられている。
スイスでも、時計学校センター(Centre de Formation en Horlogerie, CFH)のエナメル入門コースのように、時計分野に特化した内容を含む68時間の講座が開講されている。
ただし、これらの講座はエナメル技法の基礎を学ぶものであり、真の技術は長年の経験によって磨かれるものだ。現在では、継続的なエナメル教育は多くの場合、時計ブランドの社内で行われている。
業界には課題もある。ドンツェ・カドランによれば、時計業界ではエナメルの需要が減ってきており、社内での育成が難しくなりつつある。たとえばリシュモンが提供するエナメル研修では、2年間で修了者がわずか2人にとどまっている。
一方、小規模な工房では新しい動きも見られる。ガブリエル・コリアールによれば、近年は知識の共有と透明性が進みつつあるという。
「多くのエナメル職人が、この技術を次世代へ確実に継承するため、積極的に知識を伝えています」と彼は語る。
つまり、独立系職人から大手メーカーに至るまで、多くのエナメル制作に携わる者が、新人の育成にも取り組んでいるのである。こうした動きは、エナメル工芸の保存に寄与するだけでなく、その魅力をより広く知らしめることにもつながるだろう。
また、エナメル制作は手作業が不可欠であるものの、生産量の拡大や作業効率の向上のための技術も登場している。こうした新技術は人の手による美しさを置き換えるものではないが、安定した生産量を確保することで、より多くの人々に作品を届けることができる。
その一例が、エナメルにレーザー彫刻を応用する技術である。文字盤のベースにレーザーで輪郭を作ることで、クロワゾネ・エナメルにおける金線の代替として使える。また、レーザーを用いてエナメル表面を仕上げることで、マットな光沢を与えることも可能だ。
さらに、真空炉という新しい装置も登場している。これは電気炉と同様に焼成を行うが、焼成中に空気を吸収する機能を持ち、エナメル層に生じる気泡の数や大きさを減らすことができる。

▲ ガブリエル・コリアールが制作したブラックエナメル文字盤を備える、プラチナ製レジェップ・レジェピ〈クロノメーター・コンテンポラン II〉
技術的な熟練よりも、さらに難しく、また興味深い要素は、芸術的感性を育むことにある。真の芸術性は単なる技術を超えるものであり、どれほど複雑で難易度の高い技法を習得しても、それだけで美を生み出せるわけではない。
数ある技法の中でも、ミニアチュール・エナメルはこの芸術性を最もよく表している。完全な表現の自由を持ち、構図を通じて繊細な思想を伝えることができる。ここでいう構図とは、芸術、さらには哲学に対する深い理解を必要とするものである。
色彩、質感、モチーフを配置し、物語やより深い意味を表現することが求められる。こうして、静止しているはずの文字盤に生命感や自然な躍動が生まれるのである。
クロワゾネ・エナメルのように金線によって絵具の流れが制約されたり、フランケ・エナメルのように機械的な彫刻を伴ったりする技法とは対照的に、ミニアチュール・エナメルは芸術的自由を与えるものだ。
ミニアチュール絵画の大胆な筆致も、繊細な筆遣いも、こうした芸術的要素を体現している。たとえば植物や動物、人間の姿を描く際の筆の動きには、金線やギヨシェ彫刻では決して表現できない力強さや優雅さが宿る。この技法は書道や水墨画に見られる美しい筆致を思い起こさせる。
さらに究極のエナメル芸術では、人と自然が一体となっている。筆先で描かれる一筆と重ねられた色彩が自然に溶け合い、焼成の炎が最終的な表情を形づくる。こうした哲学的な深みが、ミニアチュール・エナメルを思索に誘う芸術表現へと高めているのである。
優れたエナメル文字盤には生命感が宿っている。単なる物体でありながら、その美しさを目にすると魂を感じ取ることができる。まるで職人の思考や感情が作品に宿り、量産品とは異なる生命を与えられているかのようである。エナメル文字盤は、工業製品の持つ硬質な印象とは対照的に、鮮やかな生命感と自然な温かみを放っている。
作品は職人の人生経験の結晶であり、その人生の一部を映し出すものとなる。文化や歴史、芸術への理解、そして磨き上げられた技術が、無機質な素材を芸術へと昇華させる。それは素材に生命を吹き込む行為である。そしてエナメル文字盤の腕時計は、その芸術を私たちの日常の中へと連れてきてくれるのである。
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