クオーツ危機によって機械式時計の未来が揺らいだ時代、その火を絶やすまいと立ち上がった時計師たちがいた。フランク ミュラー、フランソワ=ポール・ジュルヌ、ヴィ
The Early Visionaries of Independent Watchmaking
ジョージ・ダニエルズから続く、独立時計師のパイオニアたち
クオーツ危機によって機械式時計の未来が揺らいだ時代、その火を絶やすまいと立ち上がった時計師たちがいた。フランク ミュラー、フランソワ=ポール・ジュルヌ、ヴィアネイ・ハルター、フィリップ・デュフォー、ダニエル・ロート──。彼らは伝統を受け継ぎながらも、誰にも似ない発想で時計製造の新たな地平を切り開いた。
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by Cheryl Chia. Jun 22, 2021 |
機械式時計が消えてしまう……
クオーツ時計が世の中を席巻し、このままでは機械式時計が消えてしまうと思われた時代……。ジョージ・ダニエルズら英国の先駆者たちは、この技術をなんとかして次世代に伝えたいと考えた。同じ思いを持つ人々は増えはじめ、世の中を動かし始めた。
1985年、2人の時計師であり長くスイスに住んでいた、デンマーク生まれのスヴェン・アンデルセンとナポリ生まれのヴィンセント・カラブレーゼが、独立時計師アカデミー(AHCI)を設立した。これは独立時計師たちをまとめ、彼らの作品を広く知ってもらうための団体だった。
すべての独立時計師がAHCIに所属していたわけではないが、この団体は、職人技を守るうえで大きな役割を果たした。ここから多くの独立時計師たちが世に出て、自らの名を冠したブランドを築いていった。

▲デンマーク生まれのスヴェン・アンデルセン(左)と、ナポリ生まれのヴィンセント・カラブレーゼは、1985年に独立時計師アカデミー(AHCI)を設立した。
フランク ミュラー:元祖異端児

▲ フランク ミュラーは、1990年代から2000年代にかけて最盛期を迎えたトゥールビヨン・ブームを先導した立役者のひとりとして広く知られている。
その筆頭が、史上最も成功した独立時計師のひとり、フランク ミュラーである。ミュラーは、現在パテック フィリップ・ミュージアムの中核コレクションとなっているパテック フィリップの時計修復からキャリアをスタートさせた。
28歳のときには、自身初となるトゥールビヨン搭載腕時計を設計。当時、まだその複雑機構はごく限られた者だけが知る特別な存在であり、これは注目すべき快挙だった。実際、1990年代から2000年代に最盛期を迎えたトゥールビヨン・ブームを先導した立役者として、彼の功績は大きい。
複雑時計を約10年にわたり個人的に製作したのち、1991年に自身の会社を設立した。その際に資金面で支えたのが、パテック フィリップやダニエル・ロートなどを顧客に持つケースメーカー、ヴァルタン・シルマケスであった。
多くの時計師がブレゲの示した様式や理念を踏襲していた時代に、ミュラーはまったく新しい価値観を持ち込んだ。
1987年、イタリアの国際時計見本市で初披露された〈サントレ カーベックス〉は、その常識破りのフォルム――3方向に湾曲した大型トノーケース――とアールデコ調の数字インデックスによって、当時主流だった保守的なデザインの時計の中で異彩を放った。
これは1990年代を代表する大ヒット作となり、2000年を迎える頃には、フランク ミュラーは、売上高9桁規模のブランドへと成長していた。
さまざまな意味で型破りだったミュラーは、世界的名声を築いた先駆的な“セレブリティ時計師”でもあった。そのスタイルは、後にリシャール・ミルらにも受け継がれていく。

▲ 世界初のトリプルアクシス・トゥールビヨンを搭載した〈エヴォリューション 3-1〉

▲ ミニッツリピーター、スプリットセコンド・クロノグラフ、セキュラー・パーペチュアルカレンダー、均時差表示を含む、合計36の複雑機構を備えた〈エタルニタス メガ 4〉
ミュラーが得意としたのは、伝統的な複雑機構に対する、巧みで創造的、そして時にとても大胆な発想だった。
三つの時間帯を表示する〈マスター バンカー〉、世界初のユニークな時刻表示を採用した〈クレイジー アワーズ〉、世界初のトリプルアクシス・トゥールビヨンを搭載した〈エヴォリューション 3-1〉、そして合計36の複雑機構を備え、現在もなお世界で最も複雑な腕時計〈エタニタス メガ 4〉などがその代表作である。
これらの時計は時代を象徴する存在となり、ほかの時計師たちにも大いに刺激を与えた。
フランソワ-ポール・ジュルヌ:過去を再解釈する天才

▲ ジュルヌの時計は、18世紀の発明を現代向けに発展させ、独自の解釈を加えたものである。
AHCIのもうひとりの重要な会員が、フランソワ-ポール・ジュルヌである。彼の功績と時計界への貢献は、おそらく最も幅広いもののひとつだろう。
多くの偉大な時計師と同じように、ジュルヌも若い頃はヴィンテージの置時計や腕時計の修復に携わっていた。マルセイユの時計学校を退学になった後、パリにある叔父の修復工房で働く機会を得て、その後あらためてパリ時計学校で学び直した。
1976年に卒業すると、叔父のもとでフルタイムで働き始める。そこで18世紀の偉大なフランス時計師たち――ルロワ、ジャンヴィエ、ベルトゥーらの作品に触れた。
なかでも最も大きな影響を受けたのがブレゲであり、トゥールビヨン、ナチュラル脱進機、共鳴の原理などからインスピレーションを受けた。
ジョージ・ダニエルズもまた、ジュルヌにとって師のような存在となった。書籍や懐中時計、共通する話題を通じて、ジュルヌはダニエルズから多くを学んだのである。
両者はともに、ブレゲの系譜を受け継ぐ時計師だった。機械式時計の精度を追求し、さらにブレゲの優雅な設計思想を再現しようと努めた点でも共通していた。

▲ ジュルヌにとって非常に重要な時計、共振現象を利用した〈クロノメーター・レゾナンス〉(Image:The Hour Glass)

▲ 独自の脱進機とルモントワール機構を搭載した〈クロノメーター・オプティマム〉(Image: The Hour Glass)
1989年、ジュルヌはヴィアネイ・ハルター、デニス・フラジョレとともに、THA社を設立した。この会社は、主にブレゲ、オーデマ ピゲ、カルティエ、ジャケ・ドローといった主要ブランド向けに複雑機構を開発していた。だが、やがて3人はそれぞれ独自の道へ進んでいくことになる。
ジュルヌは1999年、20本の〈スースクリプション トゥールビヨン〉とともに自身のブランドを立ち上げた。顧客があらかじめ手付金を支払う方式(スースクリプション)を取り、ブランド創業の資金を集めたのである。
〈トゥールビヨン スヴラン〉は、ルモントワール機構を備えた初の量産腕時計だった。これは板バネを用いた定力装置で、脱進機に対して毎回一定のトルクを送り出す仕組みである。

▲ 〈スースクリプション トゥールビヨン No.10/20〉(Image: The Hour Glass)
ジュルヌによる2作目の量産モデルは、そのわずか1年後に登場した。それが革新的な〈クロノメーター・レゾナンス〉である。これは、修復師として活動していた時代に出会った、ブレゲの共鳴時計No.3177から着想を得たモデルだった。
レゾナンス(共鳴)現象は、オランダの科学者クリスティアーン・ホイヘンスによって初めて発見された。彼は、同じ木製の梁に吊るされた2台の振り子時計が、同じ振り子の動きになることに気づいたのである。
この考えはその後、アンティド・ジャンヴィエやブレゲによって研究・発展された。彼らは、それぞれ独立して駆動する2つの振り子を備えた時計を製作した。
このような時計では、一方の振り子に生じた誤差を、もう一方が打ち消す働きをし、精度の向上につながった。ブレゲは、この現象を懐中時計で実現させた。ブレゲが作った数本のうち、1本はイギリス国王ジョージ4世(1762〜1830年)のために、もう1本はフランス国王ルイ18世(1755〜1824年)のために製作されたものである。

▲ 〈トゥールビヨン スヴラン〉のムーブメントとルモントワール機構の板バネ(Images: The Hour Glass)

▲ 二つのバランスホイール、輪列、香箱を備えた〈クロノメーター・レゾナンス〉のムーブメント(Images: The Hour Glass)
共鳴現象を理解するうえで、最も重要な発見のひとつ、そしておそらく最大の鍵となったのは、この現象が空気抵抗に左右されないという点だった。真空状態でも共鳴が起こることを確認したブレゲは、その効果が空気ではなく、共有するメインプレートへ振動が伝わる“ねじれ共鳴”によって生まれると考えた。
さらに、二つのテンプはできるだけ近い歩度になるよう調整しなければならない。そうでなければ同期することができない。ジョージ・ダニエルズも著書『The Art of Breguet』の中で、テンプはフリースプラング式である必要があると述べている。
2本のピンを持つ緩急針式では、ヒゲゼンマイから受けやメインプレートへ伝わる振動の効果が弱まってしまうためである。
〈クロノメーター・レゾナンス〉は、こうした研究成果をもとに設計された。腕時計としては世界初の存在であり、まさに技術的偉業だった。
ダニエルズと同じく、ジュルヌもまたブレゲのナチュラル脱進機が持つ優れた特性に強く惹かれていた。そして2012年、〈クロノメーター・オプティマム〉で独自の方式を完成させた。
ブレゲの方式では、ひとつのガンギ車がもう一方を直接駆動するのに対し、ジュルヌの機構では、それぞれのガンギ車の下に中間車を配置し、それを介して駆動する構造となっている。これにより、脱進機のロックと解除に使うガンギ車の設計も、より一般的な形にすることが可能になった。

▲ ジュルヌの〈クロノメーター・オプティマム〉に搭載されたEBHP脱進機。二つのガンギ車は、下部に配置されたもう1組の歯車によって駆動される。
ジュルヌはこの脱進機にルモントワール機構も組み合わせている。ルモントワール機構は、ナチュラル脱進機にとって理想的な仕組みであり、主ゼンマイから伝わる力を整え、毎回一定のトルクを送り出すことで、複雑で繊細な脱進機の安定した作動に大きく役立つ。これにより、歯車の遊びによって生じるバックラッシュも最小限に抑えられる。
さらに、デテントと二つのガンギ車は、慣性をできるだけ小さくするよう設計されている。素材にはチタンが使われ、各振動のたびにガンギ車が素早くテンプローラーへ接触し、より効率よく力を伝えることで、テンプの振動を安定して保つ。
ジュルヌの才能は、こうした伝達機構だけでなく、ここでは紹介しきれない数多くの時計にも表れている。独自のデザインと思想、そして過去の機構を現代的に再解釈する手法は、時計業界に大きな足跡を残し、熱狂的な支持を集める理由となっている。
ヴィアネイ・ハルター:独立時計師の道を切り開いた男

▲ ハルターは1994年に自身のマニュファクチュールを設立し、偉大なアンティド・ジャンヴィエにちなんで〈ラ・マニュファクチュール・ジャンヴィエ〉と名付けた。
独立時計製造が、今のように多様で活気ある世界へ発展した背景には、時計づくりを新しいデザインや構造へ導いた、少数の先駆者たちの存在があった。その最初のひとりが、AHCIの会員であり、THA出身でもあるヴィアネイ・ハルターである。
1994年、ハルターは自身のマニュファクチュールを設立し、偉大なアンティド・ジャンヴィエ(1751〜1835年)に敬意を表してラ・マニュファクチュール・ジャンヴィエと名付けた。
THAと同じく、この工房もさまざまなブランドの下請けとして活動していた。知識と経験を積み重ねるなかで、ハルターの「自分自身のブランドをつくりたい」という思いが強くなっていった。
1990年代にアジア通貨危機が起こると、ハルターはその時間を使って、アメリカ人デザイナーのジェフ・バーンズとともに初の時計開発に取り組んだ。こうして最初のブランド、ハルター-バーンズが誕生する。
1998年、バーゼルワールドで発表されたのが〈アンティコア〉だった。これは瞬時日送り式の永久カレンダー腕時計であり、リベット留めされたベゼルに囲まれた4つの舷窓風サブダイヤルを備える、スチームパンク調のデザインで大きな話題となった。
左右非対称のケースは非常に複雑な構造を持ち、104個のリベットを含む計130点の部品で構成されていた。
さらにアンティコアは、仕上げにおいても一切妥協がなかった。鋭く精巧に仕上げられた針、手彫りの数字にラッカーを流し込んだホワイトゴールド製の粒仕上げダイヤル、そしてケースのヘアライン仕上げとポリッシュ仕上げの美しい対比など、細部まで徹底して作り込まれていた。
ムーブメントはツインバレル仕様のレマニア8810をベースに、大幅な改良が加えられている。永久カレンダーモジュールに加え、内部構造を巧みに隠す2枚のブリッジ、さらに見えないローターまで備えた特別な設計だった。

▲ ハルターは1998年、バーゼルワールドで〈アンティコア〉を発表した。これは4つのサブダイヤルを備えた、瞬時日送り式永久カレンダーであった。そのデザインはリバーステックかつスチームパンク調の革新的なものだった(Image: Fred Merz)
だが残念ながら、その後ふたりの関係はうまくいかなくなり、最初期のアンティコアを除くその後のモデルは、すべてハルター単独の名義で発表されることになった。
アイデアと完成度の両面で、アンティコアはほかの時計を古く見せてしまうほど衝撃的な存在だった。そして後に登場するマキシミリアン・ブッサー、フェリックス・バウムガルトナー、マーティン・フライ、ドゥニ・フラジョレらの時計づくりの土台を築いた。
2013年、ハルターは〈ディープ スペース トゥールビヨン〉を発表した。これはマルチアクシス・トゥールビヨンの考え方をさらに高い次元へ押し上げた時計だった。現在でも、市場にある三軸トゥールビヨンの中で、視覚的な迫力において屈指の1本とされている。
大きく盛り上がった風防の下では、最も内側のトゥールビヨンケージが第1軸で1分に1回転する。そのキャリッジは横向きの構造体に載せられ、この構造体が6分で1回転する。さらに全体はブルーチタン製のクレードルに支えられ、外周に縦向きに配置されたギアによって30分で1回転する仕組みとなっている。

▲ ハルターは2013年、マルチアクシス(多軸)・トゥールビヨンの概念を新たな高みへ押し上げた時計〈ディープ スペース トゥールビヨン〉を発表した(Image: Fred Merz)
トゥールビヨンはもともと、重力による誤差を抑えるという目的から生まれ、その役割は長いあいだ変わらなかった。だが、クオーツ時代以降、時計の価値が実用性だけではなくなり、トゥールビヨンは“視覚的な見せ場”となった。つまり、何よりも技術力の象徴となったのである。
そして〈ディープ スペース トゥールビヨン〉は、そうした価値観の変化を象徴する頂点の一本といえる。
フィリップ・デュフォー:現代仕上げ技術の巨匠

▲ 1978年、デュフォーは自身の工房を構え、5年間にわたり修復作業に携わったのち、初のムーブメントとなる懐中時計用のグランド・プチ・ソヌリを開発した。
機械式時計における美しさと仕上げの基準を、たった一人で大きく引き上げた独立時計師がフィリップ・デュフォーである。
スイス時計産業の中心地ヴァレ・ド・ジューに生まれ、クオーツ危機の時代に成長したデュフォーは、独立時計師として歩み出すまでの10年間、ジャガー・ルクルト、ジェラルド・ジェンタ、オーデマ ピゲなど、さまざまなブランドで経験を積んだ。
1978年、彼は自身の工房を構え、5年間にわたり修復作業に携わったのち、初のムーブメントとなる懐中時計用のグランド・プチ・ソヌリを開発した。そしてそれを、以前勤めていたブランドへ納入した。
しかしデュフォーは、自身の名前が語られないこと、そしてブランドばかりが評価されることに、しだいに不満を募らせていった。
(この思いは、のちにフランソワ-ポール・ジュルヌも語っている。独立時計師になる決意について、ジュルヌは「豚に真珠を与えるのは、もううんざりだ」という有名な言葉を吐いたという)
デュフォーの場合、その思いを晴らすきっかけとなったのが、世界初のグランド・プチ・ソヌリ腕時計だった。3年の歳月をかけて完成したこの腕時計は、1992年、自身の名を冠して発表された。
同じ年にAHCIへ加入し、さらにシンガポールの有力店アワーグラスを通じて顧客を得て、彼のブランドは本格的に始動した。

▲ 美しく仕上げられたストライキング機構を、クリアサファイアダイヤル越しに鑑賞できる、ホワイトゴールド製のユニークピース、フィリップ・デュフォー〈グランド・プチ・ソヌリ〉(Image: The Hour Glass)
続いて登場したのが〈デュアリティ〉である。これは二つのテンプを備えた世界初の腕時計だった。二つのテンプは、4番車に組み込まれた遊星差動装置によって駆動されていた。
この差動装置は、主ゼンマイからの力を二つに分け、それぞれの誤差を平均化して、時刻表示にはひとつの平均値として反映させた。たとえば、一方が日差プラス3秒、もう一方がマイナス3秒であれば、理論上は誤差0秒になる。
この方式では、二つの脱進機はひとつの輪列によって動かされる。だから、二つの独立したムーブメントを持つレゾナンス機構とは、まったく異なる仕組みである。
目指す結果は同じでも、その方法は大きく異なるのだ。レゾナンス機構がブレゲ、ジャンヴィエ、クリスティアーン・ホイヘンスへと連なる系譜を持つ一方で、デュフォーが用いた差動装置の方式は、フェルディナント・ベルトゥー(1727〜1807年)が先駆けと考えられている。
デュフォーは、故郷ル・サンティエの時計学校の生徒たちが1930年代に製作した、ダブルレギュレーター懐中時計から着想を得たという。
最終的に、差動装置は平均化された精度を得るうえで、より確実な方法といえる。ねじれ共鳴によるレゾナンスは本質的に力が弱く、多くの要因に影響されやすいためだ。
性能面だけでなく、デュアリティは左右対称の美しい設計も魅力である。ジュネーブストライプ、ブラックポリッシュ、手彫り装飾、そして何より面取り仕上げなど、多彩な装飾技法が惜しみなく用いられている。
当初は25本のシリーズとして計画されていたが、デュフォーが製作したのは9本のみで、その後は〈シンプリシティ〉の製作に力を注ぐこととなった。

▲ グレーダイヤルの〈シンプリシティ〉(Image: The Hour Glass)

▲ 鋭い内角と外角を備え、完璧な仕上げが施されたムーブメント(Image: The Hour Glass)
彼の最も名高い時計〈シンプリシティ〉は、2000年に発表された。シンプリシティでデュフォーは、仕上げへのこだわりをさらに徹底した。
ムーブメントのブリッジの角の流れるような曲線は、アングラージュ(特に内角)の仕上げ技術を見せるためのものであり、世界最高峰の仕上げを持つ時計のひとつとされている。
その卓越した仕上げ基準は、新しい世代の時計師たちにも大きな影響を与えた。
コソボ生まれの若き時計師レジェップ・レジェピや、日本のセイコー“マイクロアーティストスタジオ工房”にまで及んでいる。クレドール〈叡智〉や〈叡智 II〉も、デュフォーから強い影響を受けた作品である。
ダニエル・ロート ― 揺るがぬ時計師

▲ ロートは、いち早く独立の道を選んだ時計師のひとりであり、多くの同世代の時計師たちより10年も早い1988年に、自身の名を冠したブランドを設立した。
独立時計師たちは、その知名度や商業的成功だけで判断されてしまいがちである。そこに至るまでの苦労や試練には、あまり目が向けられない。独立時計製造という世界の本質を考えれば、それは皮肉なことである。
その結果、一部の独立時計師たちの優れた業績は、歴史の中で忘れられてしまったようにも思える。
ブランドの復活、新たな立ち上げ、そして消滅まで――時計ブランドの栄枯盛衰を見続けてきた時計師が、ダニエル・ロートである。
ロートは、いち早く独立の道を選んだ時計師のひとりである。多くの同世代の時計師たちより10年も早い1988年に、自身の名を冠したブランドを設立した。
しかし、彼のキャリアの黄金時代は、それ以前のブレゲ再興に尽くされた。ジャガー・ルクルトで短期間働いたのち、続いてオーデマ ピゲに在籍。その後、新オーナーであるジャック&ピエール・ショーメからブランド再建を託されていた当時のブレゲ代表、フランソワ・ボデに招かれ、ブレゲへ加わった。
1973年から14年間にわたりブレゲで手がけたロートの仕事は、現代ブレゲの土台を築くものとなった。その多くは、ブレゲの複雑機構やデザインコードを腕時計として再解釈する仕事だった。
ギヨシェ文字盤、コインエッジケース、特徴的なブレゲ針など、現在ブランドを象徴する要素の多くは、この時代に形づくられている。
在籍中に誕生した代表作には、ブレゲ No.5 懐中時計に直接着想を得た自動巻き永久カレンダー Ref.3310、そして6時位置にトゥールビヨンを見せるレイアウトを確立したトゥールビヨン Ref.3350などがある。

▲ 1973年から14年にわたりブレゲで手がけたロートの仕事は、今日のブレゲの礎を築いた。
しかし、ブレゲのオーナーだったショーメ兄弟が金融スキャンダルを引き起こし、1987年、3億ドルもの巨額負債を抱え会社は倒産してしまった。ロートはチューリッヒを拠点とする国際流通・マーケティング企業シーベル・ヘグナーと提携し、自身の名を冠したブランドを設立した。
1990年代、ロートはフィリップ・デュフォーやフランク ミュラーと並び、独立時計界を代表する存在となっていく。多くの時計師と同じく、ロートもアブラアン-ルイ・ブレゲの美学や複雑機構から強い影響を受けていた。
しかしその一方で、彼の時計は独創的なレイアウトによって仕上げられ、ダブルエリプスケースやピンストライプ・ギヨシェ文字盤など、明確にロートらしいデザイン言語を築き上げた。
代表作のひとつが〈トゥールビヨン ダブル フェイス〉である。これは3本アームのスモールセコンド針を備え、長さの異なる3本のブルースチール針が、トゥールビヨンの回転に合わせて3つの秒目盛りの上を進むユニークな機構だった。
クロノグラフ、永久カレンダー、トゥールビヨン、ミニッツリピーターなど、多くのモデルにはヌーヴェル・レマニア製ムーブメントが使われていた。ヌーヴェル・レマニアは、ロートがブレゲ時代にもムーブメント供給を受けていたメーカーである。
しかしその後まもなく、シーベル・ヘグナーとの関係は崩れ、ロートは保有株式の大半をシンガポールのアワーグラスに売却することになった。さらにその株式は2000年にブルガリへ売却された。
この流れの中で、ロートは残っていた持ち株も手放し、翌年、自らの名を冠した会社に別れを告げることとなった。

▲ スティールケースの限定モデルダニエル・ロート〈トゥールビヨン ダブルフェイス〉(Image: The Hour Glass)
現在、彼は息子ジャン、妻ニコラ、そして自身の名を組み合わせたジャン ダニエル ニコラのブランド名で時計製作を続けている。
2003年には、ユニークな2分間トゥールビヨンを発表した。

▲ ロートが手作業で製作し、仕上げまで手がけるジャン ダニエル ニコラ〈2 ミニッツ トゥールビヨン〉(Image: A Collected Man)
比較的珍しいジャンルであるスロー・トゥールビヨンは、一般的な1分間トゥールビヨンとは異なり、別のギア比を必要とする。そのため、トゥールビヨンケージ内部に追加の歯車を組み込まなければならない。
高速で回転するケージが生み出す躍動感とはまた違い、2分間トゥールビヨンのゆったりとした動きと複雑な構造は、同じように人を魅了する眺めとなっている。
この時計は、設計から手作業による製作、仕上げに至るまで、すべてロート自身が手がけている。それは彼の技術力だけでなく、失われつつある伝統技法を継ぐものでもある。
実際、その多大な手間ゆえに、年間生産本数は2〜3本を超えない。
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